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辺り一面真っ白だった。 その城は、幻想的に建っている。霧に包まれ光の届かない場所に、ひっそりと。 白と茶色の煉瓦で造られたお洒落な城。その前に私は立っていた。 頑強で重苦しいノック。叩くと、一人の女性が表れた。 色素の薄い金髪は一本の後れ毛も無く纏め上げられている。だがいつもは涼しげな水色の瞳は、今は大きく開いていた。 驚きに満ちた表情。 私はにっこりと微笑みかける。 「お久しぶり、エレン。」 暖炉の中でパチパチと音を立ててオレンジ色の火が踊っていた。 テラコッタ系で纏められている霧の城の応接室。本当に趣味が良い。 木の材質を生かしたテーブルにはこの城の主が好きな紅茶が置かれている。その香りは私の好きなローズだった。 「それで――。」 向かいに座ったエレンはやや眉を顰めながら口を開く。 それも当然の事。私は紅茶を口に含んだ。 「一体なぜここに?」 「単刀直入に言うとね。ハーヴェイの所が嫌になって。」 納得したのかしていないのか。見極めるのが難しいくらい微妙にエレンは唇を緩めた。 私は足を組む。太腿で組んでむっちり感をアピールするのがポイント。 「物分かりの良いエレンの事だから、もう分かってるとは思うんだけど――?」 「……。フォッグ様を呼んで来ます。」 「エレン、ありがとう。」 ハーヴェイを捨てて、再就職するために私は来た。 六人の魔王の中で一番好きな魔王が霧の城の主、アイザック=フォッグ。白髪の素敵な方。 刻まれた皺の一つ一つがその知性を表しているようで、男の色気も備え持っている。 ハッキリ言おう。彼は私のタイプど真ん中だ。 なぜ彼を最初に主君に選ばなかったのか。全くの謎だ。 紅茶を口に含む度に広がる薔薇の香り。薔薇は女を磨いてくれる。だから好きだ。 紅茶を飲んで待つ事数分。炎に見とれていると、ノックが響き、ドアが開いた。 「グロリア。」 「アイザック様!」 両手を広げた表れた白髪の初老の男性。私はその胸に飛び込む。 「お久しぶりです!」 「エレンから話は聞いたぞ。ハーヴェイに愛想を尽かせたらしいな。」 「そうなのです。ぜひこちらで働かせていただきたいと思って。」 「君なら大歓迎だ!」 アイザック様は私の腰に手を回す。私はアイザック様に微笑みかけた。 「しかしハーヴェイも君のような魅力的な女性を失うとは、惜しい事をしたな。」 「ふふふ。ありがとうございます。」 アイザック様は口が上手い。だから好きだ。 「長旅で疲れただろう?エレンに部屋を用意させているからゆっくり休みたまえ。」 「アイザック様、お心遣い感謝いたします。」 「当然の事だ。」 そう。私が求めていたのはこれだ。優しくて見返りを要求しなくて。 「グロリア、まだ準備は出来ていないと思うが案内しよう。」 「ありがとう。」 アイザック様にエスコートしてもらって応接室を出る。 道すがら、私を知っている古参の魔物は顔を青ざめ、新人の魔物は不審そうな顔をする。 楽しい。これからの事を考えると、とても楽しい反応だ。 「グロリア。」 不意に名を呼ばれた。 「あまり私の部下を虐めないでおくれ。」 「あら。バレていました?」 「君は本当に楽しそうな顔をするからね。」 私は肩を竦めた。 案内された部屋は白い煉瓦を基調としている部屋だった。 アイザック様にドアを開けてもらうと、原型の花に戻ったエレンがせかせかと働いていた。 エレンは私達に気付くと慌てて人型に戻る。そして、バツの悪そうな表情を浮かべた。 「フォッグ様。」 その声色からはなぜもう少し応接室で話をしなかった、と云う非難の色が見えた。 「気にしないで。」 私はハニーブラウンのソファに腰掛ける。 エレンはそれでも嫌そうな顔をしていた。やはり、原型を見られたくないのだろう。 「グロリア、また明日。」 アイザック様の接吻が私の右頬に降る。 「また明日。」 私もアイザック様の左頬に接吻をした。 「……。」 アイザック様が去ると、盛大なエレンの溜息が聞こえた。 「どうしたの?」 「少しは人の気持ちも考えてください。」 「だってアイザック様のお誘いを断る訳には。」 「そうですか。」 エレンは私が薔薇を好きな事をよく知ってくれている。薄紅色の薔薇の花束がベッドの脇に飾られていた。 「グロリア様。」 「何?」 「どうしてレイン様の元を去ったのですか?」 「知りたい?」 真っ白なシーツをベッドに広げるエレン。その後ろ姿は頷いていた。 「寝込みを襲われたから。」 「……。はい?」 やはり、エレンは私を誤解しているらしい。 エレンは口を半開きにして私に振り返った。 「それだけ、ですか?」 「それだけならまだしも嫌がらせばっかりしてくるし。」 「私にはレイン様がグロリア様を愛おしくて堪らないようにしか見えないのですが。」 これだから何も知らない者は困る。 「ハーヴェイがどうして私をハニーって言うか、知ってる?」 「愛おしいからではないのですか?」 もうエレンは作業を止めていた。私の隣りに腰掛けている。 ここで少し焦らすのが良い。 私が何も言わずに黙ったままエレンを見ていると、エレンの眉が少し跳ね上がった。 「――。名前を覚えていないからよ。」 今でもハッキリ覚えている。 「グラシアスって呼ばれた時には誰の事かと思ったわ。」 最初の一文字以外何も合っていない。 「あの男は唯一の趣味である昼寝を、唯一とやかく言う私が嫌いなのよ。」 「……。そうですか。」 多少エレンは衝撃を受けたようだった。それも致し方ない。 「それに私、攻める方が好きなのよね。受け身は好みじゃないって言うか。基本的にサド?」 「貴方の性癖まで聞いていません。」 「冷たい。」 頬杖を付いて横目でエレンの様子を伺う。 エレンはスカートを押さえて立ち上がった。 「グロリア様、もう少しでセッティングが出来ますのでお待ちください。」 「はぁい。」 「夕食は何になさいますか?」 エレンは途中で手を休めていたシーツを整えながら聞いてくる。 「寝るからいらない。」 「朝食は?」 「エレンが綺麗にしてくれてるし。この部屋で食べようかな?」 「畏まりました。」 そんな話をしているうちに、部屋はどんどん出来上がってくる。 エレンが話し掛ける気配もなくなったので、私はじっとエレンの動きを見ていた。 エレンはいつも髪をピッシリと結い上げている。 大人顔の人がすればそれも色気に繋がるのだが、私はどちらかと言えば童顔。下手をすればガキっぽく見えてしまう。 エレンもどちらかと言えば童顔。だから、私にはそれが理解出来ない。 ドレスも肌が見えているのは顔と手首から先くらい。 もしかしたら私はエレンに嫌われているかもしれない。全くセンスが合っていないのだから。 すると、段々と眠気に襲われた。 一週間徹夜して、居眠りしている間にハーヴェイに襲われていて。 「エレン、寝て良い?」 「ベッドでどうぞ。」 「ありがとう。」 痺れてくる頭で足を動かしながら、私はシーツの中に流れ込んだ。 良い匂いがする。フルーツの――ストロベリーの甘い香り。 うっすらと目を開けると明るい天井。いつもの重い雰囲気とは違う。 香ばしいパンの匂い――。 そうだ、私は今、霧の城にいるのだ。 身を起こすと、薔薇のレリーフに飾られた白い鏡を目の端に発見する。 覗き込むと眠たそうな顔の私がいた。それがまた、色っぽい。髪も良い感じに乱れている。何より湿気でうねっていないのが嬉しい。 「エレン?」 一つドアを開けると、朝食の準備をしていたのはエレンではなかった。 「あら失礼。おはよう。」 それをしていたのは見知らぬ黒いスーツを着た青年だった。 黒髪にややテラコッタを帯びた肌。瞳だけが灰色で不気味に光っていた。 「おはようございます、グロリア様。私はエレン様よりグロリア様のお世話を申し使ったカーティスと申します。」 「そう、はじめまして、カーティス。」 「はじめまして。」 カーティスは私が座れるように椅子を引いてくれた。私はそれに座る。 テーブルではパンにマーガリン、マーマレード、ストロベリーティー。それにトマトサラダが置いてある。 「美味しそうね」 「お気に召めしていただけたようで光栄です。」 サラダを口に運んだ。強いトマトの酸味。ドレッシングは無く、塩だけのようだ。 「カーティスはここに勤めてどれくらい?」 「七百年でございます。」 「へぇ。じゃあ、ゴードンが死ね少し前ね。」 「彼をご存知ですか?」 「まぁね。」 マーガリンとマーマレードを塗ってパンにかじりつく。 ゴードン。昔はよく虐めたものだった。 目を閉じれば思い出す。アイザック様の側を離れなかったゴードンをからかった日々。 「生真面目だから良い反応するのよねぇ。」 「はぁ。」 「深く考えなくて良いから。」 あぁ、なんて美味しい朝食。こんなに優雅に朝食を食べたのは何百年前だっただろう。 「――貴方はゴードン様の事をよくご存知なのですか?」 「えぇ。それが?」 「いえ――。」 初対面の者に何もかも話す者もいないが、少し気持ち悪い。 「それよりも、大変な時に来られましたね。」 話を変えたか。 「大変な時って?」 乗ってみるのもまた一興。 「人間が勇者を集めて魔王討伐に出向いているらしいのです。」 「なら楽しい時じゃない。」 テーブルの上にはもう紅茶しか残っていない。 その紅茶も飲み干すと、すぐにカーティスが替わりを入れる。 「ただ――。量が半端でなくて。」 「あぁ。アイザック様は言葉で陥れるのが好きだからね。」 時には甘い言葉を囁き、時には残酷を見せ。 とても趣味は良いし面白いのだが、時間が掛かる。 「幾ら?」 「三十二人でまだ十一人が消化できておりません。」 「ツアーでも組んでるの?」 「はい。最近、魔王討伐の考えが強くなっているようで。」 「ふぅん。」 どうやら人間は無駄な事が好きなようだ。 「神を復活させようと?」 「連絡を取り合った所どこも同じようだったが――。ハーヴェイは?」 アイザック様だ。エレンを引き連れてアイザック様が立っている。 私は立ち上がった。 「えぇ。どうも、私達の地区では魔王がいるか曖昧になっているようで。」 「ほぅ。」 「よくハーヴェイが勇者の前で寝るものですから生かして帰す訳にもいきませんし。」 「それは大変だな。」 「勇者がたくさん来れば彼もおちおち寝ていられなくなるでしょうか?」 「ハーヴェイの場合、神が復活しない限り無理だろう。」 「……。」 神なんか、復活してしまえば良いのに。 「グロリア。神が復活すれば良いとか、思うなよ。」 「思うのも当然です。」 私は盛大に溜息を吐いた。彼を思えば、全て当然。 「それでグロリア。君に頼みがあるんだ。」 「アイザック様の頼みとあらば何でもどうぞ。」 「ありがとう。実は、誘惑してほしい男がいてね。」 「まぁ。」 「どんな女を差し向けても全く揺らいでくれない。」 その相手とは勇者だろうか。 あぁ、アイザック様は今度はどんなシナリオを描いていらっしゃるのだろう。 「シナリオは?」 「嫉妬に狂った幻想の中の恋人に殺される。」 ゾクゾクする。 「アイザック様のそういう所、大好きですわ。」 「私もそんなシナリオに嬉々としている君が大好きだよ。」 軽く唇と唇を合わせる。 目の端で嫌そうに眉間に皺を寄せているエレンが見えた。嫉妬の方がまだ良い。 一方カーティスはエレンのようでもなく、苦笑もせずに無表情だった。 アイザック様はいつの間にか用意されていた椅子に座る。 「人間は好きだが、一度にこんなにたくさん来られると手が回らなくてね。」 「少しは部下にお任せになったら?」 「七千年にも及ぶ神との戦いで疲れたからな。楽しみくらいは。」 「それもそうですわね。」 エレンがアイザック様にもティーカップを用意してストロベリーティーを注ぐ。 出来ることでアイザック様のお役に立てるなら何かしたい。 「終わったら君のためにワインを用意しよう。」 「血のように紅い。」 「もちろんだとも。」 私はアイザック様に微笑みかける。 アイザックの白い口髭が微かに動いた。 「ねぇ、どうせその娘は村にいるんでしょう?」 少女のような瑞々しさを持ち、女性のように艶やかさを持つ彼女がそう言った。 「ねぇ。」 蠱惑的な唇。まるで血でも塗ったように――、紅い。 頭の中では村に残してきたメイが叫んでいた。わたしを裏切るの、と。 でも、オレは彼女に押し倒されても反抗できない。 ざわざわと葉の擦れる音がする。土のごつごつした感触。 心臓をわし掴みにされていた。 これは人間ではない。これは魔物だ。 そう思っても体は欲求に勝てない。 彼女は、今までのどんな魔物とも違った。 「いいでしょう?」 もはや、彼女には勝てなかった。 メイの叫びも聞こえない。 オレはただただ、彼女のなすがままに、身を預けた――。 薄紅色の小さな香水瓶。雫のようなかわいらしい形をしている。 手首に吹き掛けると、とろけるように甘い、それでいて爽やかな薔薇の香りが広がった。 「良い香りね。」 私は制作者であるカーティスに微笑みかける。 カーティスも微かに微笑んだ。 「でも貴方が香水の調合まで出来るみたいなんて意外。」 「ありがとうございます。」 「ゴードンもよく趣味で作っていたわ。」 「……。そうですか。」 「いつか私の香水作ってくれるって言ってたのに。」 嘘吐き。唇だけで呟く。 約束していたのに。それを果たさぬままゴードンは散ってしまった。 私と同じ時代に生まれた者はもういない。あとは、もっと上の魔王だけ。 「ゴードンってばそれだけが取り柄だったのに。」 でも、だからこそゴードンはあんなに長く生きて多くの部下に慕われたのだろう。 「グロリア様。」 せっかく私が感傷に浸っているとエレンの声がした。 「あの勇者が死にました。フォッグ様が一緒にお茶をと。」 「分かった。すぐ行く。」 私はカーティスに目を向ける。 「これを付けたままで良いかしら?」 「貴方のために調合したのですから。」 「ありがとう。行きましょう、エレン。」 「畏まりました。」 首筋に香水を吹き掛けた次の瞬間はアイザック様の目の前。 「こんにちは。」 アイザックは黙って椅子を引いてくれる。私はそれに座った。 「この間はありがとう。あれは実に愉快に自殺してくれてね。」 「どのように?」 「叫びながら喉を一突き。」 「呆気ないですね。」 グラスにワインが注がれる。 「それで楽しい話でもしたいんだが――。」 「何か?」 アイザック様が言葉を濁す。きっと良くない話だ。 「ハーヴェイから君を迎えに来ると先程連絡があってね。」 「……。」 あのボケが。 つい力が入ってしまい、グラスが割れる。血を流したように紅い液が垂れた。 「君が嫌でなければユーインに紹介しよう。」 ユーインは嫌だ。できれば行きたくない。 「マリウスも彼にはほとほと困っているようだ。」 「……。ハーヴェイよりはマシです。」 「それなら早速起った方が良い。」 「えぇ。」 立ち上がるとアイザック様は空けていない方の瓶を私に渡してくれた。 「餞別だ。」 「ありがとう。慌ただしくてごめんなさい。」 私はアイザック様に接吻をして、霧の立ち込める城を後にした。 「やっと行ったか。」 カーティスは懐から薄紫の小瓶を取り出して呟く。 エレンは眉を顰めた。 「それはゴードン様があの方に渡すように言ったものではありませんか。」 「あんな女に渡す必要は無い。」 カーティスはそれをまた懐に仕舞う。そして憎々しげに呟いた。 「ゴードンさんが死の間際まで調合していたこの香水を。」 エレンは溜息を吐いた。駄々っ子をなだめなければならない、と言うように。 エレンはカーティスの横に座る。 「あの方の一面だけを見て決め付けるな。」 「何?」 エレンの豹変にカーティスは驚く。だが、すぐに険悪な空気を作り出した。 「誰もがあの方に惚れている。フォッグ様とて例外ではない。」 「……。お前も、か?」 「ゴードン様も。」 「――。」 敬愛していたゴードンがあんな色香だけの女に惚れていたなんてショックだった。 「グロリア様は色香だけではありません。」 見透かされたようだった。 「あの方は愛の称号を与えられてもおかしくなあ方でした。」 「な――!?」 「あの方は――。」 あぁ、言ってしまいそうだ。 言ってこの男を懲らしめたい。言わないで胸に仕舞っておかなければ。二つの思いが交差する。 「エレン。」 幻聴か。 「グロリアの部屋を片付けておいてくれ。」 「畏まりました。」 良かった。 エレンはカーティスに冷ややかな目線を送る。 「貴方もいつか――」 後は何を言ったのか、カーティスには聞き取れなかった。 |