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ニ章 暁の王女


『誰だ?』
 声が聞こえた。辺りを見渡しても姿は見えない。
 シルヴェールか、とも思ったが違う。あの不思議な声ではない。もっと張り詰めている声だ。
『私の魔術を解いたのは誰だ?』
「そう言うあんたは?先に名乗るのが礼儀でしょ?」
 売られた喧嘩は買う。要らぬキアラのプライドが働いた。
 声は答える。
『ルイーズ=グレース=ルーシュ』
 キアラは、ルーシュ家最初の女当主の名を聞いた。彼女からルーシュ家の女当主のセカンドネームにはグレースを名乗るようになったと言う。だが、キアラは含めたまだそれは三人しかいないが。
 よりにもよって敵はルイーズ=グレース=ルーシュか。シルヴェールの影で霞んでいるとは云え、男が当主になるのが当たり前だった時代に、魔力の強い者が当主になると云う掟に従い全ての一族を蹴散らし当主になった女性。侮れない。
「キアラ=グレース=ルーシュ。」
『ルーシュだと?』
 当然の事ながらルイーズは驚いた。暫く黙ったのは、一族の皆の名前を思い出していたからであろう。
「また会いましょう。ルイーズ様。」
 出来れば会いたくないが。あんな恐ろしい女性に。
 キアラは一方的にルイーズが飛ばして来た声を切った。元々結界を張っていたので、少し送る魔力を増やすだけで良かった。
 今はダルシンと名乗っているから見付からないかもしれない。だがファーストネームもセカンドネームも名乗ったので見付かってしまうかもしれない。
 暫くは魔術を使うのを控えた方が良さそうだ。それでも、エメの記憶を介して見付かってしまうような気がしたが。



「何なのですか。あの掃除の仕方は。やり直しです。今晩、誰もいらっしゃらない時を見計らってやり直しなさい。」
 そう、怒られたのは夕飯前だっただろうか。なので罰として夕飯まで抜かれてしまった。
 そして今キアラは誰もいなくなった時を見計らって掃除をしている。
 下弦の月が昇っていた。その微かな光に照らされる薔薇は幻想的で美しい。
 だが。鳴るキアラのお腹はどうしたものか。キアラは今、とても切ない気分だった。
「腹減ったぁ!」
 キアラは叫んだ。寝静まった中庭にキアラの叫びが響く。あまりに静かで、キアラは恥ずかしくなった。
 と。
「ふふふ。」
 笑い声が聞こえる。キアラが振り向くと、其処には少女が立っていた。
 空が焼けているような、鮮やかなピンクの髪。月明かりだけでも分かる。
 影だけでもとても華奢で、そして薄闇でもとても整った顔立ちをしていた。派手と云う訳ではない。寧ろ大人しい。なのに彼女には絶対的な美しさが、人を癒す優しさが在った。
「ごめんなさい。つい笑ってしまって。」
 可愛らしい声が言う。
「いえ。此方こそすみません。」
「貴方が何を謝る必要があるの?」
 物腰も柔らかく、喋り方には何処か気品がある。一体何処の貴族の娘だろう。これでクロードの妹だとか言われたらキアラは泣く。間違い無く。
「こんな夜遅くにお散歩ですか?」
「いえ。」
 彼女は首を振った。
「薔薇が欲しいの。」
「薔薇?」
 この中庭に咲き誇っている薔薇の事か。それにしても、貴族なら誰かに持って来させれば良いのに。
「私の恋人にプレゼントしたくて。」
 そう云う事か。キアラは納得した。これが忍ぶ恋ならばこんな時間にこそこそと来なくてはならない。
「でも、摘み方が分からないの。」
「――はい?」
 つい声にして聞き返してしまった。摘み方が分からない。キアラにはその意味の方が分からない。
「薔薇には刺があるのでしょう?私、どうしたら良いのか分からなくて――。」
 彼女は恥ずかしそうに俯いた。
 中々可愛らしいじゃないか。キアラは微笑む。
「何色が良いですか?」
「え?」
 彼女は不思議そうに小首を傾げた。キアラは笑みを彼女に向ける。
「取ってあげますよ。」
 彼女は、此処に咲いている薔薇のどれにも劣らないくらい美しく微笑んだ。
「あの人には紫色が一番似合うんだけど――。」
「ありませんね。」
 キアラは即答する。
 紫色の薔薇は、キアラの時代になってやっと栽培に成功したのだ。だから此処にある筈が無い。
 やっぱり、と呟いて彼女はまた首を捻った。考えている。
「――黒い薔薇は、ありますか?」
 キアラは紫や黒の薔薇が似合いそうな青年を頭に浮かべようとして、止めた。何だか怖い事になってしまいそうだからだ。
「有る事は有るんですけど――。」
 キアラはあまり彼女と目線を合わせないように逸らして、言葉を濁らせる。
 黒い薔薇はリオネルの父がやっと完成させたものだ。温室で大事に栽培されている。
「盗みになっちゃいますよ?」
「大丈夫です。セザールには後でちゃんと言っておきますから。」
 そうだった。彼女は貴族の娘だった。
「ちょっと待ってて下さいね。」
 キアラは温室に入って行く。すると一番手近な薔薇を摘む。そして刺を取った。彼女が薔薇の刺で怪我をしてしまわぬように。
 黒い薔薇を一輪、持って行くと彼女は本当に嬉しそうな顔をする。神秘的な黒い薔薇はそれに負けていなかった。勝ってもいなかったが。
「ありがとう。」
「いいえ。」
 何故だろう。彼女を見ているとニーナを思い出す。
 彼女が薔薇から目を上げた。視線と視線が、衝突する。
「貴方、お名前は?」
「キアラです。」
「そう、キアラ。良い名前ね?」
 あまりそうでもないとキアラは思うが。彼女が言うならそうだろう。
「ねぇ、キアラ。」
 同じ女なのに。キアラは彼女に見詰められて戸惑ってしまう。
「明日も、会える。」
 首を縦に振りそうになって、キアラは慌てて横に振った。シルヴェールとの約束を思い出したから。
 すると彼女が沈んだ表情になる。何だか彼女が哀れだった。
「明後日なら大丈夫ですよ。」
 彼女の表情が輝いた。そして胸の前で指を組む。その間にはしっかりと薔薇が挟まれていた。
「明後日、同じ時間に此処でね?」
「はい。」
「約束よ!」
 彼女は駆け出す。本当に嬉しそうな表情に、キアラも笑顔になった。
 また明後日。此処で彼女ともう一度会うのか。
「――あ。」
 キアラは頭を掻いた。彼女の名前を聞いていない。人には聞いておいて、自分は名乗らないのは貴族だからか。
 でもまた会うのだからその時に聞こう。キアラは心に決めて中庭を掃く。



 一夜明けて。大変な事になっていた。
 昨日カミーユが亡くなったのも大変な事なのだが。そのカミーユの遺体が忽然と姿を消していたのである。
 この怪奇事件に貴族達が下した決断はこうだ。城を封鎖し、誰も外に出すな、と。全く馬鹿馬鹿しい。だからキアラ達清掃員は掃除も出来ずに部屋に引き篭っていた。
 本当はつい先程まで若い者達をキアラの部屋に集めて下らない話をしていたのだが。クロティルドに見付かって怒られたから解散して大人しくしているのである。
 何もしないのも癪なのでキアラは禁書を読む。禁じられた魔術ばかりが連なり。シルヴェールは一体どんな気持ちでこれを記したのだろうか。
 ふと。キアラは不安に襲われた。時を渡った対価は一体何だったのだろう。キアラは何も失ってはいないではないか。
 たまにはそんな事もあるだろう。キアラは魔術師らしからぬ判断を下すとベッドに寝転がった。
 しかし、使用人達の足を止めて一体何になると云うのだ。所詮は一瞬の自己満足に過ぎない。キアラの考えでは、これは必要の無い事なのに。
 カミーユの遺体が無ければ国王として葬る事が出来ない。これはファブリス派の考え。だが、そんな簡単な事をあのテオドールやシルヴェールのいるファブリス派がする訳ない。
 すると答えは簡単だ。ベランジェ派の行った事。話によるとルーシュ家はベランジェに付いているので簡単に実行出来るだろう。
 死者を冒涜するような真似をするなんて。――王を禁書にしてしまったキアラには何も言えないが。
 それにしても暇だ。
 キアラは扉まで小走りで駆け寄り、開けてみる。誰もいない。クロティルドに見付かったらトイレだと言おう。キアラは部屋を抜け出した。
 廊下には誰もいない。本当に静かだ。キアラの靴音が妙に大きく響く。
 こんなので今晩ルーシュ家の書庫に入るのは可能だろうか。せめて下調べくらいしたいが。無理である。
 それに明日はあの少女と会う約束もしているのに。何と無く憂鬱である。
 ぺたり。すると、キアラのそれとは違う足音が聞こえた。ぺたりぺたり、ぺたり。
 クロティルドか。だが、違う。これは妙な足音だから。違う。  ぺたり、ぺたりぺたりぺたり、ぺた、ぺたりぺたり。
 奇妙な足音は響く。それは不規則で、子供がよたよたと歩いているような足音だった。
 キアラは身構える。足音の主が誰にしろ、近付いているのだからもう直ぐ会えるのだ。
 ぺた――。
 足音の主が表れた。廊下の角から、ひょっこりと顔を覗かせている。
 白い髪と水色の瞳。じっとキアラの様子を伺っていた。
 恐らく、判断するに十歳前後の子供だろう。何故子供がこんな所に。キアラに疑問が浮かぶが直ぐに吹き飛んだ。
 その男の子はキアラに向かって歩き出したのだ。天使のような無邪気な笑顔を浮かべて、キアラに近付く。そしてキアラの前で止まった。
 男の子は何も言わない。ただ、笑顔でキアラを見詰めている。
「――。君、誰?」
 親の元へ返さなければならない。そう思うとキアラはそう問うていた。
「だぁれ?」
 不思議そうに男の子は問い返す。これでは通じなかったか。
「お名前は?」
「ふぁぶりす。」
「・・・。」
 キアラは固まった。ファブリス。それはローズの弟。そしてこの騒ぎの中心。
 こんなに幼い少年なのか。こんなに幼い少年が、醜い国の争いに。
「あなたのおなまえは?」
 少し回っていない舌でファブリスは尋ねる。
「キアラ。」
「きあら。」
 ファブリスはにっこりと微笑んだ。
 こんな所にファブリスはいてはいけない。早く王妃か誰かに返さなければ。
「お母さんは何処?」
「おかあさん?」
 これでは通じないか。キアラは言い方を変える。
「貴方の母親、母上。」
「ははうえはろぉずのおしゃべり。」
「そう。」
 聞きたいのはそんな事ではないのだが。
 キアラはファブリスの手を取った。
「一緒に帰りましょう?」
「うん!」
 取り敢えず王族の部屋があると云う宮殿へ行こう。そうすればきっとどうにかなる。
 そんな淡い期待を抱いてキアラは宮殿に向かった。が。宮殿は遠かった。しかも衛兵が至る所にいる。何と無くキアラは衛兵が苦手だった。
 衛兵に押し付けて帰ってしまおう。そう、何故か反射的に隠れて様子を伺っていた時。
「おい。」
「あひっ!」
 振り向くとクロードが立っていた。そんな気配も無く立たないでほしい。
 ただ。
「丁度良かった。」
 キアラは笑っているファブリスを抱き抱えてクロードに突き出した。クロードは驚いたような表情を浮かべる。
「ファブリス様をお願い。」
「探しても見付からなかったのはお前が誘拐してたからか。」
「阿呆。こっちに迷い込んで来てたんだよ。」
 キアラはクロードにチョップをお見舞いした。だが全くクロードには効いていない。
 舌打ちをして、クロードはキアラから目を背ける。腹が立ったのでクロードの頬を引っ張っておいた。
「何しやがる。」
「ふん!」
「ぼくも。」
 ファブリスは手を伸ばしてクロードを引っ張ろうとした。それでも届かないのでキアラはファブリスを持ち上げる。クロードの頬を引っ張ると、ファブリスは赤ん坊が笑うように、笑った。
 幾らクロードでもファブリスには怒れない。母親に叱られた子供が顰っ面をしているような妙な表情をしているので笑いが込み上げて来る。
 何が可笑しい。不機嫌そうなクロードの瞳はそう問うていた。
「へへんっ!」
「へへんん。」
 ファブリスがキアラの口真似をする。何がそんなに楽しいかと尋ねたくなるくらいファブリスは楽しそうに笑っていた。
「――キアラ。」
 キアラを呼ぶクロードの声は低かった。クロードはキアラの腕を掴んだかと思うと、ファブリスを片手で抱き上げた。
 何をしても嬉しいのか、ファブリスは本当に嬉しそうだがキアラは嬉しくない。この先の不安さえ少し抱いてしまう。
「何よ!」
「手伝え。」
「はァ!?」
「押し付けられたんだよ!」
 クロードのキアラを握る力が強くなった。本当に痛い。女の子相手なのだから少しは手加減してほしい。
「テオの野郎がこの俺にファブリス様の子守を押し付けたんだ!」
「王子相手にあんたは何て事を!」
「そうなんだから仕方無いだろう!」
「ダルシンだからって良い気になんなよ!」
「あんだと!?」
「やんのかこるぁ!」
 と、立ち止まった場所は見覚えのある場所だった。最初、この時代に来た時にキアラが現れた場所、クロードの部屋。
 クロードは急いで鍵を閉めた。逃げられない為だろうが。何と無く動物相手のように感じるのは何故だろう。
「俺は寝るから面倒見とけ。」
「待てよ。」
 キアラは奥へ消えようとするクロードの外套を掴んだ。見事にクロードはバランスを崩す。
「あんたの仕事だろう。それにこっちは早く帰んないとクロティルド様に怒られるんだよ。」
「知るか。」
「こっちこそ知るか。」
 キアラは転移の呪文を唱えて帰ろうとした。が、ルイーズ=グレース=ルーシュが怖いので止める。
 鍵を開けようとすると、キアラはクロードに肩を掴まれた。
「返すか。」
「変態よ変態。」
「お前が?」
 キアラはクロードのその、整った顔を殴って崩してやろうと考えた。だが、それは途中で止められる。
「俺に子守は無理だ。」
「最初から無理だなんて決め付けたら人間は成長出来ないわ。」
「実証済みだ。」
「それでも立ち向かって行くのが男と云う憐れな生き物よ。」
「おい。」
 と。スカートが引っ張られたような気がしてキアラは足元を見た。ファブリスがキアラのスカートを引っ張っていた。
 きらきらと光る瞳。天使のような無邪気な笑顔。差し出される小さな両手。
 勝てない。クロードとはやり合う事は出来るが、ファブリス相手では何も出来ずに完敗である。
「何?」
「きあら。」
「はい?」
「きあら。」
 純粋な天使を中心に映す目の端では。意地悪そうに笑っている悪魔が立っていた。
 これで帰れない。キアラは確信する。
 だが、転びっぱなしは悔しいではないか。誰かを同じ目に遇わせて、自分だけ立ち上がらないと。
 標的はもう決まっている。クロードだ。二人は、出会った時からこうなる運命だったのだ。
「クロード。」
 キアラはクロードの手を握る。絶対に離さない。
「一緒に遊びましょう?」
「遠慮する。」
「遠慮は無用!」
 逃がして堪るものか。言っておくが、キアラには子守なんてデリケートな事は出来ない。
「ファブリス様、何して遊びますか。」
「きあら。」
 もしかして話が通じていないのではないか。キアラはそんな不安に襲われた。
「キアラして遊ぶってよ。」
「くっ!」
 このままではクロードに昼寝を与えてしまう。それだけは絶対に避けねば。
「くろぅど。」
「・・・。」
「クロードもして遊びたいって。」
 その時のクロードの顔は、悪態が聞こえて来るような気がした。だが諦めてその場に座る。
 キアラも座ると、ファブリスはクロードの膝に乗っかった。そして何が楽しいのか、クロードの腕を揺すりながら笑う。
「クロード、ファブリス様って幾つ?」
 キアラが問うとクロードは顔を顰める。そんなにキアラと話すのが嫌か。
「十五。」
「――クロードの旦那。幾ら私が嫌いだからって嘘はいけねぇぜ。」
 十五歳、と言ったらニーナよりも一つ年上が。少し頭に障害があるようだが、身体からは十歳前後にしか見えない。
 キアラが疑いの目線を向けて唇を尖らせているとクロードは溜息を吐く。
「嘘だったらアベルの爺もファブリスに決めてたし、カミーユもすんなり認めてたよ。」
「アベル?」
「前の王だ。」
「そんな人を爺だなんて。」
「糞爺だ。」
 確かに戦争ばかり起こしていたので君王とは呼び難いが。ドュトルエル王国の発展にはとても貢献している。
 しかも今はローズに仕えているとは云え元の主君になんて事を。だが、それがクロードらしいと言えばクロードらしかった。
「でもどうしてこんなに小さいの?」