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三章 北へ


「今度詳しくドュトルエル王国の話、聞かせてね。」
 まだ諦めていなかったのか。諦めろ、とキアラは心の中で思った。
「それでは。」
「またね。」
 扉を閉めるとキアラはテーブルの上にそれを置く。まだ湯気が出ていた。
「いただきましょう。」
「えぇ。」
 キアラはレイラが持って来た冷めた赤いスープを口に含んだ。
 ――トマトの味がする。じゃがいも、にんじん、たまねぎ、よく分からない肉。これは、ボルシチだ。
 ドュトルエル王国では肉ではなく魚を入れる。それに具も少しずつ違っていた。
 キアラはボルシチが嫌いだったが、本場のボルシチがこんなに美味しいだなんて。キアラは感激した。
「キアラ、どうしたの?」
「いえ、あまりの美味しさに感動していたんです。」
「そんなに美味しかったの?」
「はい。」
 と、ローズも恐る恐るボルシチに口を付ける。毒抜きされていない料理なんて初めてだろう。
 赤いトマトスープを口に入れると、ローズの頬が薔薇色に色付いた。そして、笑みを浮かべる。
「美味しい。」
「でしょう?」
「こんなに温かいものを食べたのなんて、初めて。」
「やっぱり料理は温かいのが一番ですよ。」
「そうね。」
 そう。料理は温かい物が美味しい。
「此処ならずっと温かい料理が食べられますよ。」
「でも――。私は――。」
「ローズ。」
 ローズが言いたい事は分かった。ドュトルエル王国に帰らなければならないと云う事。
 だからシルヴェールもローズの言葉を止めた。キアラは悲しくなる。
 ずっと此処にいればローズはシルヴェールと幸せに暮らせるのに。けれどもそれはニーナの誕生が無くなると云う事。
 ローズは必ず行く。それがドュトルエル王国を滅ぼす原因になるのだが。
「それで私、宮廷魔法使いになろうと思うんですよ。食いぶちを作る為に。」
「宮廷魔法使いになんかなるものではないだろう。」
「いやぁ、でもクロードが坊主になるかどうかの瀬戸際なんで此処は私が宮廷魔法使いにでもと。」
「あぁ、そうね。」
「別に愛してるとかじゃありませんからね。」
 キアラはローズに釘を刺しておいた。若干ローズはつまらなそうな顔をする。
 やはりからかっていただけか。キアラはとても嫌な気分になってしまった。
「クロードなんて顔だけじゃないですか。」
「キアラ・・・。」
「だったらキアラはどんなのが好みなんだ?」
「・・・。」
 切り返された、と思った。シルヴェールにはそんなつもりはないかもしれない。だが、キアラには答えがなかった。
 好みの男性だなんて。一度も考えていなかった。何と答えようか。
 クロードとテオドールは論外。シルヴェールは理想だが、男性としてではなくて魔術師として。
 そうだ。コンスタンチンはどうだ。顔も悪くないし性格も良いし。嫌、駄目だ。喧嘩をしたら間違えて骨を折られそうだ。
 ならば誰がいる。家族は勿論駄目だ。いや、もしかしたら三男のシャルロなら――。でも駄目か。
「キアラ。そんなに悩まなくても。」
「いえ。ちょっと待ってて下さい。」
 リオネルにニルス。彼らは将来性が無い。ならばユーグ。あんな無表情と顔合わせて食事したら発狂する。
 残して来たマルセル。腕は確かだが正体不明だから嫌だ。
「キアラ、具体的じゃなくても背が高いとか低いとか――。」
 そうだ。実在する人物に固執する事はないんだ。キアラは急に恥ずかしくなった。
「そうですよね。背は高い方が良いです。あと、顔も昨日の魔物を越えない範囲で。」
「・・・。」
「性格は、うじうじするのは腹立つからはっきりした方が良いです。同業者だと上手くいかないって言うし、魔術師じゃない方が良いです。気取った金持ちも駄目。いや、でも研究資金を得る為には金持ちが良いかも。」
「だったらやっぱりクロードね。」
 ローズはそう言う。だがキアラは勝った。
「あと、巨乳が好きじゃなくて貧乳を貧乳と言わない人。」
 ローズは何も言わない。勝ったとは思ったが、嬉しくはなかった。
「人に散々話させたんだから二人の馴れ初めとか聞かせて下さいよ。」
「馴れ初めってな。」
「二人だけの秘密です。」
 ローズはにっこりと白百合のように上品な笑みを浮かべてシルヴェールに向かって唇に指を当てた。
 何があった。勘繰りたくなってしまうのがキアラの悪い癖、かもしれない。
「つまらないじゃないですかぁ。」
「ふふふ。キアラにもそう云う相手が出来たらね。」
「私の恋人は魔術です。」
「将来寂しくなるでしょう?」
「なりませんよ。」
 キアラにとって一番はニーナ。二番は魔術。魔術の研究をしていれば幾らでもいける。
「そんなねぇ、若い女の子は男女間の愛が全て、みたいな子が多いけど、それが果たして一生ものですか?」
 愛し合う二人を前にあまり言いたくないが――。恋愛なんてままごとだ。それに気付くのが結婚の後だったら最悪。
 人間は誰か一人だけを愛する事が出来ない。だから、決断を迫られた時、気付いた時、冷めた時。別れが待っている。
 いつかは終わる。何だって。兄弟姉妹だって、裏切る事があるのだ。
 その点魔術は良い。意思を持たないから裏切らない。キアラが魔術に何かを注げば注いだだけ、キアラに何かを返してくれる。
「でも私はシルヴェールを愛しているわ。」
「私だってそれを全部は否定出来ません。でも、私はそう思っています。」
 そう。キアラにとって、ローズは別の世界の住人だと思っていた。キアラとは別の生き物だと思っていた。
 愛なんて存在しない。自分でも偏った考えだと思う。だが、そう思っている。
「私とシルヴェールがずっと一緒だったらキアラも信じてくれるかしら?」
「検討はしますよ。」
「キアラみたいに信念の強い人が自分の考えを曲げるなんて、楽しみだわ。」
「もしかしてローズ性格悪いですか?」
「いいえ。」
 ひょっとして、でなくて。ローズは生まれながらの女狐かもしれない。
「だったらそれ飛び越えて結婚したらローズは驚きますか?」
「えぇ。」
 いつの間にか皿の中は空になっていた。惜しい気もする。本当に美味しかった。
 帰ったら、ニーナをヴェルディー帝国に連れて行こう。料理は美味しいしきっとニーナも喜ぶ。
「それじゃ、食器返して来ますね。」
「だったら私が――」
「シルヴェール様は病み上がりなんだから大人しくしていて下さい。」
「別に病み上がりではない。」
 だがキアラはシルヴェールの言葉を聞かないようにして部屋を出た。ごゆっくり。
 ガリーナに教えてもらった通り道を進むと良い匂いのする食堂で、忙しそうな修道士や修道女が見えた。
 どうしよう。こんなに大勢の修道士や修道女がいるのを初めてみた。しかも、物凄く忙しそうだ。
 人数が人数なだけに、夕食を作るのも大変なのだろうか。キアラはお皿を持ったまま呆然としてしまった。
 どうしたら良いのだろう。キアラは分からず、見知った顔を探す。
「あのぅ、」
 話した事は無いが、キアラはようやく一人の修道士を捕まえた。
「食器なんですけど・・・。」
「お客人!」
 そんな、キアラの顔を見て叫ばれても。
「コンスタンチン様とクロードさんが魔物狩りに行ったんです!早く行って下さい!」
「場所は?」
「この寺院の北側です!」
 何だと。キアラは彼にお皿を無理矢理持たせて駆け出した。
An apparition of a victus alio of flamma(炎の精霊よ)
Tribuo mihi vestri estus(汝の熱を我に与え給え)
Tribuo lemma vestri estus(汝の熱を彼の者に与え給え)
 呪文を唱えると身体が温かくなる。キアラは止める修道女を振り切って外に飛び出した。ただ、北は何処だ。
 と、思う暇も無くクロードとコンスタンチンの戦闘が見えた。最近、グロテスクな魔物が流行っているのだろうか。
 頭と思われる部分からゼリー状の物が除いている。しかも、大きな芋虫のようなもので緑色の血管が浮き出ていた。
「うへ。」
Gemo flamma!(炎よ唸れ!)
Totus populus quisnam es scelestus mihi(我にとって邪悪なものを)
Exuro universitas is!(焼き尽くせ!)
 キアラの放った炎が魔物を焼く。クロードとコンスタンチンが一斉に振り向いた。
「キアラ!」
「どう?」
「どうもこうも。」
 コンスタンチンがキアラの腕を引っ張る。キアラが倒れるようにその場を離れると、魔物がその頭を持ち上げて立ち上がった。
「取り敢えず此処から離さないと。」
「その必要はない。」
 真っ白な肌。首筋には汗が浮かんでいる。暗い暗い瞳が魔物を見据えていた。
「シルヴェール。」
「下がっていろ。」
 来る。シルヴェールの魔力が膨れ上がった。ぴりぴりと、肌が痛い。
 なのにクロードとコンスタンチンはただシルヴェールを見ている。キアラは二人の頭を押さえて伏せた。
 辺り一面の雪が全て無くなってしまうかと云う爆音。何かが降って来た。
 雪だ。舞い上がった雪が再び降って来ている。
 魔物は跡形も無く消えていた。一体何があったのかも分からないくらいに。
 あぁ、やっぱりシルヴェールは凄い。
「シルヴェール様、風と炎で内部から爆発させたんですか!?」
「よく分かったな。ついでに雷も合わせておいた。」
「凄い!私にも教えて下さいよ!」
「それは自分で掴むものだ。」
「二つはどうにかなるんですけど。三つ目がねぇ。」
 どうも出来ない。
 二つは簡単だ。両手に発生させれば良いのだから。
 それにシルヴェールみたいに同じ場所から三つというのが。
 だが、深く考えている暇は無かった。
「は――?」
 集まっていた。
 先程のあれが何体も。そして、こちらに向かっていた。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
「キアラ、落ち着け。」
 どうしてシルヴェールはこんなにも落ち着いていられるのか。
「あれは俺達にはどうにも出来ないからなぁ。」
「・・・。」
 あぁ。そうだ。クロードとコンスタンチンにはどうにも出来ないのだ。
「下がってて。」
 キアラはクロードを押し退ける。
「シルヴェール様、あれを二人で焼き払うってのはどうです?」
「考える暇も無さそうだな。」
 キアラは胸の前に両手を開く。それにシルヴェールの掌が重なる。
 ぞっとした。
 敬愛するシルヴェールの掌から、冷たいような、熱いような魔力が伝わって来た。
Meus apparition of a victus alio(我が精霊よ)
Owen ut est an apparition of a victus alio of flamma(炎の精霊オーウェンよ)
Tribuo mihi spiritus of sententia(汝の息吹を我に)
Does sententia teneo mihi?(汝は我を知るか)
Ut mihi a pactum of sententia est maximus!(我は汝の契約主成り!)
 その炎は紅蓮だった。雪を溶かしながら、真っ直ぐに進む。
 キアラは快感に身を震わせる。
 気持ち良かった。魔物が焼ける音ではない。空になる程魔力を開放した。それが気持ち良かった。
 キアラの恍惚とした表情にシルヴェールは目を見開く。また、クロードもそうしていた。
「癖になりそう。」
「止めておきなよ。」
 コンスタンチンは雪の無くなった大地を見ながら呟いた。



「乾杯!」
「乾杯!」
 キアラはその整った顔に唾を吐きかけてやりたくなる衝動を抑えるのに必死だ
った。
 今日――日付は変わってしまったが――何回目の乾杯だろうか。
 酒が飲みたかっただけだろう、魔物討伐祝いと称してクロードとコンスタンチンは迷惑にもキアラとシルヴェールを連れて町に出た。
 シルヴェールは良い。ローズが心配だとか何とか行って一杯飲んだだけで帰ったから。
 どうやらクロードもコンスタンチンも、自分は飲んでいるがキアラを帰す気が無いらしい。
 ふらりとキアラはその酒場を出た。クロードとコンスタンチンは気付かない。
 不快そうに何人かがキアラを見る。あの酒場とは大違いだ。
 この他所者が。そう言われているようだった。
 通りには誰もいない。仄かに道すがら酒場から明かりが漏れ、雪が反射している。
 あの酒場に行こうか。
 戻って一人ホットミルクを飲むよりも良いだろう。
 誰か奢ってくれると言っていたし。
 記憶を頼りにあの店を探す。
 テオドールがやっていてくれたお陰で、近くの景色は鮮明に覚えていた。
 賑わしい酒場にそっと入る。つもりが。
「嬢ちゃん!」
 何のつもりなんだ。
 一人の見覚えのあるような、無いような傭兵がキアラに抱き着いて来た。
 黒髪の、いかにも悪人顔。
 何かが頭の隅で引っ掛かる。
「この間はありがとうな!オレの命の恩人だ!」
 あぁ。
「あの時の!」
 思い出せた喜びでキアラは両手を叩いた。
「赤髪にボコられてた!」
「それは余計だ。」
 照れたように黒髪は目を逸らす。
「オレはカルルってんだ。嬢ちゃんは?」
 カルル、か。
「キアラ。魔術師よ。」
「魔法使いの事か?」
「そうよ。確か、この国の女王様も――」
 キアラが言葉を紡ぐより早く、物音がした。
 グラスを落としたような、それにしては大きい音。
 キアラが目線を逸らすと、床の彼方此方にはガラスの破片と、主に琥珀色の液体が飛び散っていた。
「何?」
「な、何って。」
 互いに互いが顔を合わせる。
「陛下は魔法使いって段階じゃねぇぞ。」
「魔法使いじゃない?」
「あれは――。」
 魔女だ。氷の魔女だ。
 皆口々にそう言う。
「魔女も魔法使いも一緒じゃない。」
「嬢ちゃん、それは違う。」
 そう口を開いた薄い金髪に藍緑色の瞳の傭兵。若く、精悍な顔付きをしていた。
 自然とキアラは彼が座っている隣りのカウンター席に座る。
 と、おやっさんがそっとキアラにホットココアを差し出した。
「どう云う事?」
「陛下が氷の女王って呼ばれているのは知っているか?」
 知らない。
 だが、キアラは話を合わせる為に頷いた。
「陛下は何もしなくとも氷を意のままに操る事が出来るんだ。」
「それは理論的に不可能でしょう。」
 脳を通さずに唇から滑り落ちた。
 それは当たり前の事だ。魔術をかじった事のある者なら誰でも知っている。
「でも出来るんだ。それに使い魔だって何匹も使役している。」
 それはコンスタンチンに聞いた。
「だから――。」
 そのビードロのような藍緑がキアラを見据える。
「陛下を気安く女王って呼んだり、魔女って呼ばない方が良い。」
「別に良いだろ。」
 これは勿論、キアラではない。
 キアラの横には、あの赤髪の男が座っていた。名前は、確かレフ。
 目の端ではカルルが酒場を抜け出しているのが見える。
「あの氷女、なんて言おうと勝手だろ。」
「それはお前が――!」
 彼は言葉を飲む。
 猛禽類のようなぎらぎらとした眼で、レフが見ていた。
「ウォッカ。」
「はい。」
 おやっさんはボトルからウォッカを注いで、レフの前に置く。
「貴方、横柄ね。」
 キアラはレフに言った。
 レフのその眼がキアラに注がれる。
「やるか?」
「やる?」
 試したかった。何故、この男に炎が通じないのか。
「嬢ちゃん。」
 おやっさんが情けない声を出す。
「今日は勘弁してくれ。」
「だって。」
「だから?」
 レフはもう柄に手を掛けている。
「じゃあ、私の質問に満足な答えをくれたらやってあげる。」
「は?」
 レフは顔をしかめる。
 こう云う時は、横柄な方が良い。
 貴方は何者、と聞きたいし聞くべきだ。が。
「魔術――つまり魔法――の五大因子とそれが及ぼす相互作用を答えよ。」
 おやっさんも困っている事だし、今は戦わないのが一番だ。
 キアラはホットココアを飲む。
 魔術をかじった事のある者なら簡単な問題。だが、この男は魔術に関する知識が低そうだ。
「早くしないと店閉まるよぉ。」
 考えている考えている。
 だが、一向に答えが導き出される気配が無い。
「お兄さん、名前、何て言うの?」
 気が大きくなった。大きくなって、金髪の彼に尋ねる。
「ギオルギー。嬢ちゃんは?」
「キアラ。宜しく。」
「嬢ちゃん、ナンパか?」
 おやっさんが嬉しそうにキアラに聞いてくる。
「花の十七歳、お婿さん募集中。」
「じゃあ立候補するよ。」
「既婚者お断り。」
「おやっさんじゃその面から無理だ。」
「お前、自分が少し面良いからって!」
 ギオルギーは屈託の無い笑みを浮かべる。
 あぁ。もしかしたら、好みかもしれない。
 キアラは微笑んだ。
 レフは必死に考えている。その燃えるような髪に手を置いていた。
「嬢ちゃんの男の好みは?」
 おやっさんが興味津々で聞いてくる。
 年頃の女性の好みが気になるのか、――レフ以外の――酒場の皆は耳を傾けて
いるようだった。
 好み、か。
「第一条件私に尽くしてくれる人?」
 ギオルギーは声を上げて笑った。
「キアラは下僕が欲しいのか!?」
 笑う所ではないと思うのだが。
 キアラは少々腹を立たせながら答える。