異邦人
 月は仄かに白く光り、黒い雲がそれを覆う。ぼんやりとそんな空を眺めていた男は、ふとその目を細め、まるで睨みつけるかのように月を見た。
 白い月の横に、まるで重なるように浮かぶ黄色い星が並んでいた。それもまた、月と呼ぶべき星である。
――月が二つ。
 男にとってその事実は不可思議で、尋常ではなかった。
 だが月を包む空も、雲も、風でさえも、それが当たり前のように二つの月を受け入れている。

○ ○ ○


「っくしょん!」
 風の冷たさに俊駕(シュンガ)は身震いをすると、止めていた足を再び動かし始めた。さきほどから道なき道を進んでいるせいか、自分がどこへ向かっているのかも分からない。だがここから出なければという思いだけが彼の足を動かしているのだ。俊駕は迷っていた。
 闇に溶け込むような黒い短髪に、成人男性にしては小柄な身体、それを覆う衣服も黒を基調とし、ショートブーツが砂利の上を踏むたびにカツカツと静寂の中に不自然な音を響かせる。そんな彼の身なりは決してこの場所に似合っているとは言いがたかった。周りを見渡せば木々ばかりの、整備されていない森の中だ。
 どれくらい歩いたかも分からず、それでも歩くことをやめない。額にも浮かんでは流れる汗を気にも留めず、俊駕は前へ前へと進む。前だけしか進む道は無いかのごとく。
「うぅ……寒ぃ。チェグムの奴、こんな所で置いてきやがって……」
 もう一度身体を震わせてから、俊駕はパンツのポケットに手を入れた。それで寒さを防げるわけもないのだが。
 足早に進んでいくが景色は変わらない。進んでも進んでも同じ道が続いているだけだ。
 同じところを回っているのだろうか。
 そんな不安を抱きながらも、自分を“迷いの森”で置き去りにしていった愛車――もとい相棒のチェグムを、心の中で叱咤することで気を紛らわす。
 夜はまだ更けそうにもない。延々と続く真暗な闇の中を己の感覚だけで突き進んでいく。すると遠くの方で明かりが見えた。それはこの暗闇の中だからこそ目立つ小さな明かりだった。ゆらゆらと時々消えそうになる赤い光りは、俊駕にとって先の希望のように思えた。
「火か?」
 恐る恐る、だが込み上げてくる安堵と喜びを隠そうともせず、俊駕はその光りへ向かって足早に近づいていく。重くなったはずの足取りは軽い。
「誰だ」
 俊駕がはっきりと明かりの正体が人工的に燃え上がる火だと知ったとき、唐突に驚愕したような低い声が彼の耳に飛び込んできた。それが自分に対しての言葉だと気づいたのは、焚き火の前で身構える男の姿を見てからだった。
 俊駕と同じ黒い髪は綺麗に後ろへ撫で付けられ、けれど僅かに額に垂れかかっている。座っているのだろうが俊駕よりも長身であることは間違いなく、この暗闇に溶けそうな深い黒い瞳をしている。それに反して彼が着ている白い衣服はあまりにもこの景色と不似合いな感じがするものだった。



 白衣の男――黒崎宗一(くろさき そういち)は、誰だ、と声を発してから、それがいかに見当違いな問いであるかに気付いた。このような森で人と出会う事など、それこそ奇跡のような確率だ。獣の一種に違いない。座ったまま身構え、武器もしくは目眩ましになりそうな物を探して、宗一はポケットの中をまさぐった。
 だが、自殺を図ったはずの彼がこの森で目覚めたのと同じように、奇跡という物は確かに存在するようだった。

 森の中、ぽっかりと開けた空間。川からほど近いそこには木々が生えておらず、野宿には丁度良さそうな場所だった。この森で目覚めてすぐに向かった森の出口と思しき場所は、実際は川沿いの土手だった。川は小川と呼ぶには少々大きく、流れも急だ。その所為か堆積した大振りな岩石によって土砂が堰き止められ、点々とこのような開けた空間が形成されていた。
 川に沿って下流に一時間程歩いてみたが、当初の目的である人里の発見は叶わなかった。尤も、水脈という命綱と早々に出会えた事は思わぬ僥倖であり、さらに幸いであったのはこの小川の水が飲み水に適しているらしい事だった。これは、水の透明度から推測出来たし、猪に似た動物が頭部を小川に突っ込んで水を飲んでいた事で確信に変わった。
 人里と食糧の確保こそ出来なかったものの、飲み水の確保に成功したという意味では、サバイバル一日目の成果としては上々だろう。キャンプなどの経験は皆無だったが、この調子ならば一週間は生きられるだろうと思い、宗一は手頃な川沿いで野宿をすることにした。
 日が暮れ始めていたこともあって、獣除けのために熾した火は暖を取るという意味でも役に立った。陽が沈んでからというもの、時折吹き抜ける風は酷く冷たい。ライターと数枚のメモさえなければ、宗一の体温は大きく奪われていたに違いなかった。たとえば、今彼の眼前にいる少年のように。
 宗一と向かい合って立っている俊駕を少年、と呼ぶのは相応しくない。俊駕は疾うに成人を迎えている。だから、宗一が俊駕を少年だと考えたのはさほど大柄ではない自分と比べても尚小柄なその体躯故だった。
 黒を基調とした彼の服装は、白衣を纏った宗一にも引けを取らない程、この森には似つかわしくなかった。少なくとも人がいるという事はこの付近に人里があるという事だ。地元の人間が迷い込んだのかもしれない、と俊駕の置かれた状況を知らない宗一は結論づけた。
 夜に森の中を歩き回るのは得策ではない。夜が明けたら道案内を頼もうと考え、宗一は警戒を解いた。普段の宗一ならばあり得ない事だが、深い森に一人でいた所為か、他者との接触を求めていたのかもしれない。尤も、俊駕という人物をよく知っていればこうも無防備な行動に出る事などなかっただろうが。
「寒そうですね。こちらに来て、火に当たるといいですよ」
 木立の間から顔を覗かせていた俊駕は、釣り目がちな大きな目に警戒の色を滲ませていたが、やがて宗一に危害を加える意思がないことを悟ったのか、小さく頷いて再び足を踏み出した。橙色の火が、俊駕の小麦色の肌を照らす。
 俊駕から視線をずらした宗一は、ぱきん、と木の枝を折って揺らめきながら燃える火の中に放り込んだ。パチパチと音を立てて小枝が爆ぜる。
 次の小枝を宗一が手にしていると、俊駕は焚き火を挟んで宗一と向かい合うように地面に腰を下ろしていた。
 何を話そうか。俊駕は人に出会えた安心感とまだ解け切れぬ警戒心の間で揺れていた。焚き火を挟んだ目の前で火を焼べている男にどう云う反応を示せば良いのだろう。――俊駕がそんな事で悩んでいると先に宗一が口を開いた。
「初めまして。俺は黒崎宗一です。君は?」
「俺は俊駕。宜しく、宗一?」
 俊駕は確かめるように宗一と云う名前を呼んだ。
 一方宗一は両親にしか名前を呼ばれた事が無く、驚いて目を見開いてしまう。黒崎。その家名が宗一の全てだったのである。
 そんな驚いた宗一の顔を見て俊駕は気不味そうな表情を浮かべた。何か言ってはいけない事を言ってしまった。そんな気がしたのである。
「俺、何か悪い事言ったか?」
「いいえ。」
 焚き火に火を燃べる手を止めて宗一は首を横に振った。
 俊駕は宗一のその動作を見て安心した。
「俊駕さん、話は変わりますが朝になったら人里まで案内して頂けませんか?」
「あー。実は俺も迷ってて――。何日も彷徨ってた――んだ。」
 まさかタイムキーパーに追われた挙句、“迷いの森”で迷っていてこんな処に来ました、とは言えまい。そんな事を話せば俊駕が犯罪者である事も芋蔓式に話さなければならなくなる。
「――困りました。」
 俊駕に抱いていた一筋の希望が消えてしまった。宗一は頭を掻くと取り敢えずまた焚き火に小枝を放り込んだ。
 一体いつまでこの森で彷徨い歩けば良いのだろう。焦燥にも似た感情が宗一を苛む。
 そんな宗一の姿を見て俊駕は瞬きをした。
 宗一の苛立ちが移ったように頭を掻きながら短髪を掴む。
「明日、一緒に探して頂けますか?」
「ん、あぁ。」
 何をするにもこの森から抜けるのが先である。そう考えた俊駕は納得したように何回も頷いた。
「お互いにこんな森で迷っちまって大変だな。」
「そうですね。全くの同感です。」
「ところで宗一はどうし――!?」
 草を擦るような物音に俊駕は振り向いた。  俊駕の様子に釣られて宗一も俊駕の右肩上を見つめる。耳を澄ませばぴしゃりぴしゃりと云う水の滴るような音が聞こえた。その音は不定期に歩いて来るようである。この森に住んでいる野生生物であろうか。
 宗一と俊駕がせめてそれが肉食動物でない事を祈った。
 足音は確実に、ゆっくりと此方に向かって来る。
 宗一は俊駕の時と同じように、息を飲んで相手の登場を待った。
「火――、火でござる。」
 そう、焚き火に照らされた木の陰から奇妙な格好をした男が立っていた。宗一や俊駕が人の格好をどうこう言える格好で無い事は分かっている。それにしても男の服装は今まで見た事の無い奇妙なものだった。
 薄い水色の布を服のように身体に巻き付けており、袖に当たる部分は大きく垂れ下がっていた。腰には蒼く太い紐を巻き、刀を刺している。足には靴の変わりに枯れたような緑色の植物で出来たサンダルを履いていた。頭部には白い紐で高い位置で一つ括りを作り、またその括った髪を頭上に括り付けている。
 そしてその男は全身ずぶ濡れだった。
 不可解だ。
 そんな二人の心情を無視して男は二人に近付く。宗一と俊駕の顔を交互に見渡し、桃耶は勢い良く頭を下げた。
「貴方は――?」
「桃耶、佐々木桃耶でござる。」
「いえ、そうでなくて――」
 宗一の意図を理解していない男――桃耶に宗一は首を振った。  しかし桃耶はそれに気付かずに地に膝を付いて深く頭を下げる。
 その行為に驚いて俊駕は一歩後退った。
「火に当たらせてはござらぬか!」

 桃耶にとって、その火は命を救ってくれる物そのものだった。  川に落ちて流されて。漸く這い上がった時には桃耶の体温は下がり切っていた。
 悴む手を擦りながら歩く事数時間。やっと辿り着いた命の火である。
 その火を囲んで見知らぬ男が二人いたとしても桃耶には火に当たる事が先決だった。どう考えても今火に当たらなければ生命活動が停止してしまう。
 桃耶が縋るような気持ちでじっと二人を見つめると背の高い方の男が火に向かって手を差し出した。
「どうぞ当たって下さい。」
「かたじけのうござる。」
 何かひどく、視線を感じることにイヤでも気づいているのに、いざ一人に視線を移すと、相手は目をそらし、もう一人に視線を移しても、相手は一人と同じように視線をそらした。
 トウヤはそこで眉をハの字にして前の炎に目をやる。  それの繰り返しだった。四回ほど続いたときにはトウヤの性格がこの無言の空間を許そうとはしなかった。
『うーむ』  炎に両手をかざしていたのを引っ込め、目を瞑(つむ)り腕を組んだ。
 先ほどまでの格好も格好だったのだが、今も十分二人の目を引いた。
 彼はそう、腰に白い布を巻いている以外は、ほぼ裸同然だった。服を乾かすにしても、何も躊躇せずに脱ぎだしたとき、男たちは息を詰まらした。適当な木に着流しを掛け、しばらく経ってもトウヤがいなかったときの無言なりにも苦痛に感じない空間は訪れなかった。
 しかし、意外にもそういう時は自分の意思に関係なく物事が進むものである。
 誰かの空腹を告げる音が聞こえた。
「うっ」
 黒い服の男のほうだった。
 その音が鳴った後は、まるで嵐の前の静けさのごとくもう一度無音の空間が訪れ、その後――、
「か、かかかかかかか。お、おなかがすいているでござるか? かっかっか」
 閉じていた目を開き、組んでいた手を胡坐(あぐら)を書いていたひざに勢いよくたたき、口を大きくして笑った。もう一人が笑ったかどうかはわからないが、もし笑っていたとしてもトウヤによってかき消されていたであろう。
「な、なんだよ。わりィか、何日もくってないんだ。しかたないだろう!」
「し、失礼した。か、くっくっく。で、では、もう一度。拙者、桃耶。佐々木桃耶と申すでござる。くっく、お主は?」