異邦人
 笑われることは時代に作用されること無く、多くの場合相手は顔を真っ赤にするものである。
「しゅ、俊駕(シュンガ)だ!」
 余計に目を吊り上げていても、それほど効果はない。
「そうでござるか。お主は?」
 桃耶は立ち上がり、ある程度あったまったので背伸びをして大きく息を吸い込み吐き出す。
「え、俺は黒崎宗一、です」
 おずおずと彼の質問に答える。実際炎の明るさは変っていないのに、この場が明るくなった、雰囲気というのは不思議なものだ。
「じゃあ、少しの間、待っていてはくれまいか?」
「え?」
「実は、濡れいたのは、お、もう乾いているでござる。ここに来てから猪に追われていて、川に落ちてしまったからでござるよ」
「猪?」
 たまたま、二人の世界には猪という動物が生息していて、姿かたちもおおよそ正しかった。彼ら二人はどっちも文献としてみただけで、実際見たことは無いが、体長は大体片腕くらい、重さは自分の体重ほどと聞いている。
「そんな大群に襲われたのか?」
「いや、一匹でござるが?」
 二人は想像しようとつとめたが、この大きさ、重さのものに追いかけられる桃耶は想像できなかった。
「それで、落ちたことはわかりましたが、それが一体――」
「川の中ではうまく動けなかったでござるが、見事にしとめたでござるよ。今、とってくるでござる」
 いつの間にか着替え、また暗闇の中へ消えていった。
「たった一匹に追いかけられて、川へ落ちるなんて、面白いやつというか、ドジというか」
 一人が息をはき、
「そ、そうですね、それより戻ってこれるのでしょうか」
 もう一人が、苦笑いをしてみせる。
「さあ、ね」
 しばらく、風のなびきによっての葉のこすれあう音と、炎の中の木がはじける音が聞こえた。
 そして、しばらく経った後、今度は彼が消えていったほうから、木が幹から折れる音が聞こえてきた。音の関係から、最初は小さいものだったのに、だんだんと大きくなっていき、ついに二人が見ている木の後ろまで来た。 彼が消えたときにはこんな音は聞こえなかったし、たとえ一匹の猪を持ってくるのだから、こんな音がしてくる自体おかしかった。もしかしたら、別のなにか、なのかも知れない。と思ったほどだ。
 暗闇のために木の後ろでさえ見えないのがいっそうの不安をかきたてた。炎をはさんで、対角線に移動して、身構える。
 そして、もう一つ木が折れる音がして、自分の頭くらいの鼻が飛び出してきた。
「これが猪か? でかすぎる!」
 二人が文献として図鑑で見たのは形は同じなのに、大きさは天と地ほど違いがあった。
「では、お礼を込めて、さ、食べるでござる」
 二人はお互いのココロはわからないのに、同じ事を思った。
『『これ、どうやってたべるんだろう?』』
 そんなことを思っている間に、トウヤは息を飲み込んでいる二人をよそにくしゃみをしながら、また、火にあたりはじめた。
「川を見てたら、また寒くなってきたでござる。あ、一応峰打ちでござるから、生きてる分新鮮でござるよ」
 トウヤはそう言い、身体を十分温めるとどうしていいか分からずにいる二人の目の前で、慣れた手つきでその巨体な猪をさばき始めた。腰に差していた刀の切れ味を見事なまでに披露し、猪の肉は宗一が絶やさず燃えさせていた炎によって良い油を出していく。 
猪の肉は脂身が想像以上にあり、美味いものではなかった。
「腹も満たされたことだし、そろそろ拙者は寝るでござる」
 猪の半分以上を一人で平らげたトウヤは満足そうに腹を摩り、刀を目の前に突き刺すとそれにもたれかかるように前屈みになった。器用に座りながら寝息を立て始める。
「おもしれぇ奴だな」
 俊駕は苦笑いに似た笑みをトウヤに向けて呟いた。宗一も同じように苦笑してみるが、彼を「面白い」とは思えなかった。こういった人物を自由奔放と言うのだろうが、今まで宗一の周りにはそういった人間は居なかった。少なくとも宗一自身が認識している人の中には存在していなかったのだ。どういう反応を取ればいいか分からない。
 結局、宗一も俊駕もトウヤのように熟睡まではできなかった。あまり眠らずにいる夜は長かったが、朝はどの世界でも常のように静かに、確実に訪れる。だんだんと薄日が差してくる頃、何の音もしない静寂だけだった森の中に、鳥のさえずりや風が木の葉を遊ぶざわめきが、昇る太陽に目覚めさせられる。三人の姿もはっきりと色の付いた視界で確認できた。
 白だと思っていた宗一の白衣は所々が汚れて茶色になっているし、トウヤの水色の着物も薄く模様が入っていることに気づく。俊駕の焼けた肌は白い太陽の下ではそれほど目立つものではなかった。
 宗一は火を消すために腰を上げた。それに習って俊駕も立ち上がる。トウヤは未だ起きない様子だ。
「手伝うよ」
「これくらいなら大丈夫です」
 宗一がそう言うも、俊駕は宗一と共に弱々しく燃え上がる炎に土を被せていく。あれほど頼もしかった赤い火は、いとも呆気なくその姿を消した。
「これからどうするでござるか?」
 寝ているとばかり思っていたトウヤが唐突に声を掛けた。宗一と俊駕は驚きつつも、それを表立って見せることはなかった。
「とりあえず森を出たいですね」
「――だな」
 トウヤは二人の返事を聞くと、眠そうに一つ大きな欠伸をしたあと、ゆっくりと立ち上がった。背を伸ばすとポキポキと骨の鳴る音がした。まだ風は冷たいが、おかげで目はすっかり覚めそうだ。
 猪の残骸をその場に残したまま、三人は河川沿いに歩き出した。川の流れに沿っていけば海へ出られるだろう。海の近くというものは人が集まる地点でもある。水のある地というのは――川だろうが海だろうが――とかく生き物を呼び寄せるのだ。この世界が人の居る場所なら、の話だが。
 歩いていくと森が開けていくのが分かる。まだ人がいるような気配は感じられないが、獣の姿は幾度か確認できた。それは遠くで見かけるものしかなかったが、それでも昨夜トウヤが持ってきた猪より巨体な獣ではなかった。あれはこの世界でも規格外のサイズだったに違いない。
 何度か休憩を繰り返しながら下っていくと、視界の端にぼんやりと街のようなものが霞んで見えてきた。それは一瞬砂漠で見るような幻かと思うほど陽炎のように揺らいで見える。だがそれは近づくに連れただの霧だということが分かる。建物の形がはっきりしてくると、初めてそれが現実にあるものだと信じれた。まるで山の上から下界を見下ろすように、その建物は悠然としていた。
 森と町の中間地点でようやく道らしき道を見つけたとき、一つの影が動いた。
 最初に気づいたのは俊駕だった。
 ふと足を止めて川とは反対の方へ視線を向ける。それは何かに注意を向ける時にするような、ゆっくりとした動作だった。
「どうしたでござるか?」
 トウヤと宗一も俊駕の視線をなぞる。その先にはまばらに立つ樹木だけしかない。トウヤがもう一度口を開こうとした時、宗一が小さく「あ」と声を出した。
 宗一と俊駕の視線が交わるところを見つけると、トウヤも目を見開いて息を呑んだ。
 そこにいたのはヒトだった。
 黒い髪は光の加減で茶色く透き通り、僅かに見える手は正に白い色をしていた。全体的に細身のそのヒトが静かに振り返る。思わず三人同時に息を呑み込んだ。何ともいえない雰囲気がそのヒトを纏っている。何かを定めるように見つめる彼は、果たして“彼”なのか“彼女”なのか一瞬では区別が付きにくい顔立ちをしてた。
 どれくらいの時が彼らの間に流れたかは分からない。
 だが宗一が目の前の彼の異変に気づくのにそれほど時間はかからなかったように思う。
 白い肌に映えるように、赤い血が彼の全身に染められていた。
 宗一が“彼”の異変に気付いた直後、彼は、そのまま崩れ落ちるように地面に倒れ臥した。
 ――まずい。
 彼の許へと駆け寄り、脇にしゃがみ込んだ宗一は、このままでは彼の命にさえ関わるであろうことを瞬時に看破した。呼吸は荒く、白い顔には脂汗が浮かんでいる。全身を濡らす血糊の量は尋常ではない。仮にも医者である宗一にそれがわからないはずがなかった。
 手首を取り、宗一は脈拍を確かめる。血の気がない程の白い肌と出血量に反して脈拍は安定しているが、予断を許さない状況である事に変わりはない。
「おい、大丈夫なのか?」
 宗一の肩越しに彼を見下ろしていた俊駕が訊ねる。
「今はまだ息がありますが、このままではまずいでしょうね……。出血量が多すぎる」
 俊駕とトウヤは宗一が医者である事など知らないが、門外漢である二人にも宗一の言葉が真実であろう事は彼の様子から容易く見て取れた。
 適切な処置さえ施せば問題はないだろうが、その為に必要な道具などはない。ここは手術室ではないのだ。
「トウヤさん、その刀を貸して頂けませんか?」
「構わぬでござるよ」
 宗一は白衣の下に身に着けていたカッターシャツの袖を強引に千切り取ると、たった今借りたトウヤの愛刀・子辛刀で幾つかに切り分けた。白い布切れで出血の酷い箇所を縛り止血する。応急処置でしかないが、何もせずに手をこまねいているよりはずっとましだ。
「随分と手慣れているでござるな」
「ええ、まあ……」
 感心したようなトウヤの言葉に曖昧に答えて、宗一が視線を上げる。その先には、霧に包まれ陽炎のように揺らめく建物の像があった。遠目にもその街がある程度の発展を遂げていることがわかる。
「俺がしたのはあくまで応急処置です。一刻も早く医者に診せなくては」
 医大を首席で卒業した医者であろうとも、道具がなければ治療をする事さえ出来ない。宗一は無力感を噛み締めながらも、それを決して表に出そうとはしなかった。ポーカーフェイスには慣れている。
「とにかく、あの街へ連れて行けばいいでござるな?」
 言うが早いか、トウヤは彼を肩に担ぎ上げていた。
「そうだな。街に医者がいないわけがねえ」
 生まれた時代などまるで違う三人ではあったが、あれだけの規模の街であれば医者の一人や二人はいるに違いないという俊駕の言葉に、トウヤと宗一が同意する。
 しかし、まだ街へはかなりの距離がある。ここまで来るのでさえ何度か休憩を挟んできたのだ、既に正午も過ぎた今から街へ辿り着く頃には日が暮れているだろう。それまで“彼”の体力がもつかどうかは、宗一の見立てでは微妙なラインだった。
「急ぎましょう」
 立ち上がって言う宗一に二人が頷く。
「担ぐのも交替でならなんとかなりそうだしな」
 意識のない人間を担ぎ上げるのは、意識のある人間を担ぐよりも遙かに体力を消耗するものだ。
 俊駕の提案に宗一が頷き――しかし、トウヤは首を横に振った。
「いや、拙者は先に行くでござる」
「は? ちょ、ちょっと待て。お前、何考えてるんだよ!?」
 さも当然、とばかりに言ってのけたトウヤに俊駕が食って掛かった。だが、既にトウヤの視線は遠くに見える街の影に定められており、俊駕には見向きもしない。
「拙者一人の方がきっと早いでござるよ。俊駕殿と宗一殿は後から追い掛けて来てくれればいいでござる」
 トウヤの目つきが変わる。感覚を確かめるようにその場で三度程軽く跳躍し、
「トウヤさ――」
 宗一がその名を呼ぶよりも早く、トウヤは駆け出していた。人間を一人抱えているとは思えない驚異的な速度でトウヤの背中は遠ざかっていく。
 取り残された二人は黙って顔を見合わせ、再び視線を前方に移した。既にトウヤの姿は見えない。
「おもしろい通り越して、デタラメな奴だな……」
「そ、そうですね……」
 呆気にとられた二人がトウヤを追い掛けるのは、それからしばらく経っての事だった。

 宗一と俊駕がようやく街に辿り着いたのは、既に西日が傾いた頃だった。
「おお、二人とも遅かったでござるな」
 二人を出迎えたのは、街の外壁に背を預けていたトウヤだった。その表情に疲れなどは一切見られない。それに対し二人は疲れ果てており、半ばグロッキー状態でさえあった。
 川沿いの道は当然の事ながら舗装などされておらず、まるで登山道のようだった。医家の出身である宗一は勿論、チェグムという相棒のいた俊駕も山道を歩くという経験はないに等しい。そんな道を丸一日歩いていれば、二人の体力が底を突くのも当然の事だった。