異邦人
「お、驚いたでござる」
 と、そのときだった。
 ずるっ、ぼと。
 何かが、落ちる音がした。
「ん、ほどけたでござるか? 今朝しっかり結ったのに」
 桃耶が頭に手を置こうとして、場外から俊駕が話しかける。
「し、下見てみろ、下」
「下、でござるか?」
 疑問に思いながらいわれたとおりに彼は下を見て、黒い大きな毛虫のようなものに目をやると、いそいで頭に手を置き、愕然とした。そこには彼の象徴ともいえるものがなくなっていた。
「せ、拙者の髷(まげ)が。は、半年かけて伸ばした、自慢の髷が」
 未来にいってすぐにちょんまげは禁止とされているとそそのかされて、ユタカにその時代流行の髪形に切られ、だまされたと知って半年かけて伸ばした髪でゆったそれがよい具合に切れ、そとはねの髪が結構似合い、ちょっぴり好青年に見えることはさておいて、
「髷がぁぁぁぁあああ」
 髷はきれいに切り落とされ、桃耶はひざを落としていた。
 相手は桃耶がひざを落とした隙を狙って再び「ファイヤーガン」と叫ぶ。赤く渦巻く炎が白く光る手の中から桃耶へ放たれる。
 しかし。
 放たれた炎が会場の壁へ2度目の激突を遂げたと同時に、相手もそれとは正反対の方へ倒れこんだ。
 誰も何も分からなかった。辺りが静まり返り、少しずつ騒がしさを取り戻したときには、桃耶が最後の一蹴りを相手の腹へ叩き込んでいた。

 鈍い音がし、呻く声が聞こえた。

「勝負あり!」
 審判の慌てた声と共に歓声にも罵声にも似た声が会場に溢れ返った。その中で俊駕と宗一は素早く桃耶へ駆け寄り、まだ物足りなさそうな怒りを見せる彼を退場させた。
「バカじゃないか」
 控え場所に戻って来た桃耶を一瞥した雪慈が思わず呟いた。
「髷をバカにするでござるか!!」
「まあまあ、落ち着けって!」
 俊駕が必死に宥めたところで桃耶の怒りと悲しさを消せるわけもなく、今にも雪慈に掴みかかろうとする彼を抑えるだけで精一杯だった。雪慈は本来のそれであるかのように冷たい瞳を彼らに送ると、静かに会場へ上がっていく。どうやら戦う気は満々だったようだ。
「お主もやはり豚汁が良いのでござろう!」
 なぜか勝ち誇ったかのように叫ぶ桃耶を無視し、雪慈は舞台の中央へ立つ。一気に観客は騒ぎ出し、雪慈の容貌に圧倒された。 「先ほどの方はもう引いて良いんですか?」
 審判員がそっと雪慈に確認を取る。ルールの性質上、大抵の場合は勝ち抜き戦形式に進めていくものなのだ。
 雪慈は答えず、審判員はその沈黙を了承と捉えた。そして審判が合図をすると向かい側から同じく二人目の人間が現れた。
 体格は雪慈とそう変わらず細くしなやかだ。左手首には大きなブレスレットが二つ、腕を動かすたびにジャラジャラと金属特有の擦れ合う音を響かせていた。髪は空と同じ青色。それが染めているのか地毛なのか分からないほど透き通っていて、日に当たるたび白く反射していた。
 醜い女だった。
「アンタがアタシの相手か。アタシはさっきのヤツみたいなヘマはしないよ」
 垂れ下がった細い目を更に細くさせて微笑む。そばかすだらけの頬に皺を寄せて微笑む様はまるで魔女のようだ。異常に白すぎる肌も女を醜い容姿に見せる要素でしかない。
「始め!!」
 まず動いたのは雪慈だった。あれほどの大怪我を負っていたとは微塵も感じさせないほどの動きで女に詰め寄る。そのスピードは桃耶と引けを取れそうなほどに思えた。
 しかし女も負けてはいなかった。素早く体を動かして秒単位で繰り出される雪慈からの攻撃を交わしていく。ところが女は交わすだけで、一向に攻撃を見せない。雪慈の方も攻撃と言うのは名ばかりのような、致命的な傷を負わすにはあまりにも弱いものばかりだ。
 桃耶とその相手が見合って互いの力を推し量るのと同様、二人は動くことでお互いの力を確かめ合っているようでもある。
 ひらひらと舞う彼女の髪を追うようにして雪慈が手を伸ばした。
 顔に当たると思われたその拳は宙をかすめ、女の拳もまた雪慈の長い髪を掴み損ねた。
「キレイな色ね。アタシ、キレイなものが大嫌いなのよ」
 女が囁くように言うのと同時に、雪慈は女から距離を置いた。女が宙で輪を描き、叫んだ。
「ムーンボルトサイコ」
 一瞬にしてあたりは光に包まれ、雪慈は空間が歪む感覚に襲われた。実際に歪んでいるのかもしれないと思った。視界が丸く歪み、思わず目を細める。研ぎ澄まされる五感でなんとか平衡感覚を保っている状態で、とてもではないが動けそうになかった。
 ――何だ、これは?
 足を一歩動かすのもつらい。
 女の気配が近づいてくるのが分かる。
「この状態で立ち続けるなんて、最高にキレイじゃないの、むかつくわ!」
 がくん、と雪慈の体が倒される。ふわっと宙に浮いた感覚が気持ちよかった。水の中にいるような、とてもゆっくりとした時間の中で雪慈は完全に目を閉じようとしていた。
「雪慈!!」
 どこからか聞いたことのある声が聞こえた。
 刹那、己の状態が理解できた。開いた瞳に映る世界はすでに歪んでいなかった。
 体は宙になど浮いておらず、地面にうつ伏せの状態で倒れていた。さっと起き上がると多少頭痛がしたものの、それ以外の異常は見られない。さきほどのあれは、幻覚の術だったらしい。
 背後に気配を感じ体を動かせば、見たことのある炎の渦が雪慈の背を避けて壁にぶち当たった。
 破壊音と共に数十人の悲鳴が響く。炎が当たったのは観客席真下の壁だったのだ。

「なんで平気なの! なんでそんなにキレイな顔をしていられるのよ!」
 半分泣きそうな声で醜い女は叫んだ。両手を天に掲げ、雪慈を睨みつけながら言った。
「ボルトガン」
 雷鳴がどこからともなく轟き、雪慈めがけて稲妻が走る。
 息を呑み込む俊駕、宗一、桃耶を一瞥すると、雪慈は軽く口元を釣り上げて、微笑んだ。
 稲妻が落ちぬ間に雪慈は走り出した。まだ頭痛は残っているものの気になるほどではない。
 稲妻が落ち、地響きで会場が揺れる。観客らは慌てふためき、ほとんどの者がもはや舞台を見ていなかった。煙が立ちこめ視界を悪くしたことも観客の動揺を誘う要因だった。
 ようやく煙が引き、観客も己の無事に安堵すると、舞台上の変化に目を見張る。いつの間にか倒れこんでいる女の首を雪慈が右手一本で押さえ込んでいた。
 首を絞めながら微笑む雪慈はあまりにも美しい表情で、女は自分の置かれた状況も忘れて彼に目を奪われていた。
「そ、それまで!!」

 審判の声が響き渡っても、しばらくの間武術場は静寂に包まれていた。
 雪慈は女の首から手を放し、ゆっくりと立ち上がる。しかし、女が起き上がる気配はなかった。頸動脈を締められ、気絶しているのだ。口からだらりと舌を垂らし、ぴくりとも動かないその姿は、死んでいると観客達に思わせるには十分すぎた。
「い、医療班! 急げ!!」
 審判の叫びと共に、二人組の男が担架を手に駆け込んでくる。担架で女が運ばれていくのを、雪慈は壮絶な笑みで見送っていた。
「さあ、次だ」
 言って、雪慈は武術場の奥へと視線を投げた。冷たい視線に射抜かれ、ひっ、と痩躯の男が悲鳴にも似た声をあげる。そのまま、男は武術場に背を向け走り出していた。
 雪慈の圧倒的なまでの力、そして何よりその無慈悲さに、男は心底恐怖していた。その結果がこの敵前逃亡――即ち棄権だった。

 その表情になんの感慨も浮かべず、雪慈は武術場を後にして階段を下ってくる。最初に出迎えたのは、桃耶だった。
「流石は雪慈殿、やるでござるなぁ」
 自慢の髷をなくし、先程までは荒れ狂っていたはずだが、どうやら落ち着きを取り戻したらしい。ただ、目許が赤く腫れているあたり、泣いてすっきりしたのだろう。
「大したことはない」
 白い雪慈の肌には、汗一つ浮かんでいない。謙遜でもなんでもなく、事実雪慈にとっては大したことではなかったのだ。あやかしと人間とでは、そもそも規格が違うのだから。
「何言ってんだ、十分大したもんだっての。お陰で俺達が戦わなくて済んだんだから。な、宗一……宗、一?」
 俊駕の声には怪訝そうな響きが含まれていた。疑問だけではなく、驚きと、恐怖も。
 彼の隣、彼の視線の先には、宗一が立っている。そして、今の宗一が纏っている空気は、普段の理知的でどこか影のあるそれではなかった。元々あまり感情を表に出すタイプではないが、今の宗一はあまりにも感情的だ。
 それが一体どのような感情を露わにした物であるか、問うまでもなく。その顔には、激情が浮かんでいた。そして、その脇を雪慈が通り抜けようとして、
「待てよ!」
 胸座を掴み、壁に押し付けた。
「お、おい……!」
「宗一殿、何を!?」
 思わず俊駕と桃耶が声をあげるが、それは宗一の視線で遮られた。同時に、二人は宗一の憤怒に気付く。
「……なんのつもりだ?」
「それは俺の台詞ですよ! さっきの……もう勝負は決まっていた。ただ押さえ付けるだけで十分だったはずでしょう!? なのに、どうして……」
 頸動脈が圧迫されれば、脳への血流――即ち酸素の運搬が阻害され、結果脳細胞の死滅にも繋がる。脳への酸素供給が五分停止しただけで、生存率は三割に満たなくなってしまうのだ。
 眼球が目蓋を押し上げ、舌は充血して膨れ上がっているのが、宗一には遠目にもわかった。あと数秒審判が止めに入るのが遅ければ、あの女は死んでいたかもしれない。
「このような催しの模擬戦といえど、戦いであることに変わりはない。戦いとは敵をころ――」
 言い終わるよりも早く。宗一は再び雪慈の体を壁に押し付けた。
「ふざけるな! 人を殺すなんて、軽々しく口にしていい言葉じゃない……!」
 救いたいと願ったのに、救えない命がある。その辛さを、身を以て知っているからこそ、宗一には雪慈の言葉が、行為が、どうしても赦せない。理不尽に命を奪うことなど、決して。
 ――だが。
 あくまで雪慈は冷たい視線を宗一に向けるだけだった。
「……言いたいことはそれだけか」
 一言、それだけを口にして雪慈は宗一の手を払いのけた。思わず宗一はたたらを踏む。だが、敵意を込めた視線は雪慈に向けたままだ。しかし、それを雪慈は柳に風とばかりに受け流す。
「それは戦いを知らない者の言い分だ。我々は人間に虐げられ、多くの同族が人間に殺された。そして私自身、既に多くの人間を屠ってきた。そもそもあやかしと人間とは相容れないもの、殺し合う関係だ」
 あくまで淡々と、事実だけを口にする。自分は人間ではないのだと、お前達とは違うのだと、そう告げるかのように。
 あやかしと人間の歴史は戦いの歴史、殺し合いの歴史だ――。そう締め括って、雪慈は踵を返した。
「おい、雪慈、どこ行くんだよっ?」
 俊駕の言葉に、雪慈は一度だけ立ち止まって。
「ここは人の想念がありすぎる。次の試合になったら、外まで呼びに来てくれればいい」
 もう一度歩き出す。今度は、立ち止まりはしなかった。
 雪慈の姿が見えなくなってしばらく経った頃、はぁ、と誰かが溜息を吐いた。二人の視線が、一人――桃耶に集まる。
「どうしたでござるか、宗一殿らしくもない」
 少なくとも、宗一が今見せた一面は、桃耶の知る宗一の物ではなかった。
「すみません、カッとなってしまって……。でも、認められないんです。どうしても、赦せなかったんです」
 目の前で、誰かが死ぬことが――。
 バツが悪そうに言って、宗一は頬を掻く。申し訳ないとは思っているが、反省はしていない。雪慈には雪慈の言い分があることはわかっていたが、それを認められないという風だった。
「ま、宗一は医者だもんな。人が死んでも平気だっつーんなら、医者として最低だ――けどよ」宗一の肩に手を置いて、「雪慈の言い分も一理あるぜ。あいつはあやかしってヤツなんだ。あいつにとっちゃ、人間ってのはみんな敵みたいなもんなんだろ」
 俊駕は二度、軽く宗一の肩を叩いて、それぞれ事情があるんだよ、と言って微笑んだ。
「そうでござるな。生まれる時代が違えば、戦乱の世ということもあるでござる。拙者達は皆違う時代、違う世界の人間、仕方ない部分もあるでござろう」