異邦人
 耳鳴りさえしそうな最悪の状態の中、宗一はふとそんなことを思った。相手が唱えた言葉に聞き覚えがあった。あの醜い女が最初に唱えたものだ。信じられない、と吐き気さえする中で思う。

『黒崎君はこれくらい簡単なんだろうね』
『黒崎はいいよなあ、オレにもその頭、少し分けてほしいよ』
『さすがだな、黒崎』

 不意に懐かしい声が遠くの方で聞こえてきた。声の主はもう忘れてしまったけれど、うんざりするような羨望のセリフには覚えがあった。自分の努力も知らないで勝手に上へ上へと位置付けされる。それは中学、高校と上がるたびに強制され、もはや自分の意思では降りられない。そうしてきたのは全て宗一自身なのだが。
 なぜこんなことを思い出すのだろう。今はそう……自分はただの黒崎宗一のはずなのに。

「センセイ」

 はっと目を見開く。顔を上げると歪む世界の中に幼い少女の顔が浮かび上がった。

 これが幻覚の術の中だとどこかでは分かっている。
 だが目の前に居る少女があまりにもリアルで、宗一は目をそらすことが出来なかった。

「センセイ」

 少女は笑い、次第に歪む。視界が、ではなく、少女自身が、壊れたビデオのように歪み、消える。

「……っ」
 分かっている。これは相手の術。罠だ。
 だが感情が追いつかない。込み上げてくるものを抑えることが出来ない。ほんの一瞬見えただけだというのに、少女の姿はあまりにも宗一の心に衝撃を与えた。
 肉体的な戦いだとばかり思っていた自分が浅はかだったのか?  回り続ける空間の中で、立ち上がることも出来ない宗一は両手で顔を覆った。何のために剣を握ったのか忘れそうなほど、宗一は絶望感に襲われた。
 ぴりっと手首に痛みが走った。
 宗一は震える手を押さえて顔を上げる。真っ白な世界はぐるぐると回り、とても立てそうにない。だが宗一は確かめるように地に足をつけた。

「センセイ」

 ずっと近くで聞こえるその声を無視して、最後の力を踏み入れる。

 少女の声が、どうしても耳を離れない。センセイ、センセイ、と絶え間なく繰り返される雑音。耳にこびり付く子供特有の高い声が、刻一刻と宗一の神経を蝕み、精神を削り取っていく。
 力を込めたはずの膝は笑い、一瞬でも気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうになる。ともすれば手放しそうになる意識を必死で手繰り寄せ、時折ふらつきながらも、どうにか宗一は体勢を保っていた。
 宗一の口から漏れる呼吸は荒い。まるで熱病に浮かされたかのように朦朧とする意識は、殆ど風前の灯火だった。
 ――センセイ。
 ギリ、という耳障りな音は、宗一自身も気付かない、けれど宗一の耳にしか届かない歯軋りだ。きつく歯を食いしばりすぎたためだろう、宗一の口内には鉄錆のような味が広がっていたが、今の宗一にそれを気に留めている余裕などなかった。
 そして、幻聴に気を囚われている余裕も。
「チェインウィング」
 轟、と渦巻く風が幻聴をも吹き飛ばさんばかりの勢いで吹き荒れ、
「がっ!?」
 刹那、腹に叩き付けられた衝撃で宗一の体は吹き飛ばされていた。蹴り上げられたサッカーボールのようにその体は跳ね上がり、地面に叩き付けられる。咄嗟に頭を庇うという受け身の真似事が宗一に出来たのは、偏に武道の経験のお陰か。
 腹に受けた衝撃は勿論のこと、地面に叩き付けられたことで、宗一の全身は悲鳴をあげていた。だが、その激痛のためだろう、幻覚からは解放されている。
「ダブル――」
 それは、桃耶の一戦の焼き直しか。
 審判は己が耳と目を疑った。先程警告を与えたばかりだというのに、この男はそれを繰り返そうというのだ。だが、男の判断はある意味で正しい。ここで宗一を倒してしまいさえすれば、たとえ警告により失格とされても二対一。勝ち抜き戦の性質を利用した、立派な戦術だ。
 地表に散らばっていた砂が舞い上がり、宗一の頭上に集まっていく。砂は土となり、石となり、そして巨大な岩石へとその姿を変え、
「――ロックガン!」
 宗一目掛けて放たれた。
 重力を味方に付けた岩石は加速を続け、宗一を押し潰すさんと迫り、
「ぅ、くっ……!」
 けれどそれは、地面を転がった宗一を戦闘不能に追い込むには届かなかった。仰向けに地面に倒れ込んだ宗一から僅かに一歩分のところに一つ、それと隣り合うようにもう一つ、巨大な岩が地面にめり込んでいる。宗一が押し潰されずに済んだのは、殆ど幸運によるものだった。
「っく、は……ぁ。げほ、ぇほぉっ、ごほっ……」
 しきりに咳き込み、よろめきながらも宗一は立ち上がった。衝撃で飛び散った岩石の破片によってだろう、白衣は所々が破れて血が滲み、頬には細かな擦り傷が刻まれ、眼鏡のレンズにはひびが入っている。誰が見るまでもなく満身創痍だ。

 濛々と舞い上がる砂煙の中、シルエットだけが浮かび上がる宗一の姿に、観客席からも歓声が沸き上がった。だが、それとは対照的に彼を見つめる仲間達の表情は険しい。ただ一人、彫像のような無表情で会場を見下ろす雪慈を除いて。
「アイツ、大丈夫かよ……」
 青ざめた顔で、俊駕は呟く。タイムキーパーに追われた経験が彼にあろうが、このような常識外の攻撃を実際に受けたことなどない。それは宗一も同じ事だろう――いや、見たことさえないに違いない。桃耶のような身体能力を持っているわけでも、雪慈のように人ならざる者でもない彼がこれ以上攻撃を受けてしまったら。その結末を脳裏に描いて、俊駕は戦慄した。
「ミレイ、用意しておいてくれ」
「ええ、わかってる――」
 杖を握り締め、ミレイはマイティの言葉に頷く。このまま続ければ命に関わるかもしれない。ルールで殺害は禁じられているとはいえ、“もしも”ということは十分にあり得るのだ。
「そうだ、ギブアップさせれば――!」
 そうすれば、これ以上宗一が危険な目に遭うこともない。
 俊駕はそう考え、早速行動に移そうとした。だが、
「駄目でござるよ」
 桃耶が、それを許さない。
 その声に、宗一を心配している様子は見られない。あるのはただ、信頼。根拠もなければ理由もない、信頼だけが、そこにある。
「何言ってんだ、このままじゃ宗一が死んじまうだろ……!」
 俊駕は声を荒げるが、桃耶は無言で首を横に振った。
「まだ負けが決まったわけではないでござる。それに――」言葉を句切り、雪慈に一瞬だけ視線を投げて、「宗一殿には、拙者達が噛まない犬だと証明してもらわなければならないでござるよ」
 あっけらかんと、言い切った。

 ふらふらと、危なげな足取りで、けれど一歩一歩確実に宗一は歩を進める。目指すは、ルースから借り受けた剣の許。
「げほっ、けほっ……」
 舞い上がった砂埃に気管を冒され、宗一はワイシャツの襟元を口許に寄せた。
 視界を覆う程の粉塵が宗一にはありがたかった。こちらからも相手の姿は見えないが、それは相手にも言えることだ。だからこそ、こうして相手に背を向けて武器を拾う事が出来る。
 ずっしりと重い剣を拾い上げ、右手で握り締める。幸い、先程地面に落下した際の負傷は思った程ではなかった。精々打撲、それよりもずきずきと痛む腹の方が重傷だな、と宗一は自分でも驚く程冷静に自身の体調を診断を下す。
 ――センセイ。
「っ……!?」
 またか、と苦虫を噛み潰したような表情で宗一は呟いた。先程までの頭痛はなく、意識もはっきりしているというのに、幻聴だけがなくならない。なくなって、くれない。
 センセイ、センセイ、と少女の声が頭蓋の奥で反響する。魔法によって生み出されたのではない幻聴。ならば、この幻聴を生み出しているのは。
「……俺の弱さ、か」
 助けられなかった――否、宗一が死なせかけてしまった少女。一命を取り留めたとはいえ、それは宗一の功績ではない。だというのにきっと、ありがとう、と言って何も知らない少女は感謝するのだ。それに耐えられず、自殺を図り――そして、宗一はこの世界で目を覚ました。
 どうしてまだ生きているのか、どうしてこの世界に辿り着いてしまったのか。わからないことは幾らでもあって、この大会が終わってからどうすればいいのか、宗一にはわからない。
 ――だけど。今、為すべきことだけは、わかっていた。
『拙者たちが噛まない犬であるということを、雪慈殿に証明するでござるぅ』
 仲間の言葉が、幻聴と共に脳裏を過ぎる。どうすればそれを証明出来るのかなど、宗一にはわからない。
 だって、仲間、というものを宗一は知らなかったから。
 黒崎宗一に向けられる感情は羨望と嫉妬ばかり。異性に言い寄られることはあっても、それらは黒崎家という名前を目的にしたもので。友情とか愛情とか、そういった感情を向けられたことなど、一度もなかった。
 だというのに、桃耶は、俊駕は、自分を信頼してくれている。雪慈だって、人間を嫌っていると言ってはいるものの、それでも自分達にはどこか気を許してくれている節がある。もしかしたら、それは自惚れなのかもしれないけれど。
 ――だからこそ、応えなくてはいけない、と思う。黒崎宗一にではなく、ただ一人の宗一という人間に期待してくれている、彼らに。
 顔を上げ、仲間達へと視線を向ける。青ざめた俊駕、無表情な雪慈、笑顔の桃耶。心配と、信頼。今までは知らなかった感情が、少しだけくすぐったい。
 ――まずは、こんな馬鹿に付き合ってくれた、桃耶の信頼に。
 いつの間にか、幻聴は綺麗に消え去っていた。
 左手をゆらりと持ち上げ、手を開いて水平に構える。
 どんな魔法があるのかなんて、宗一にはわからない。けれど、幾つかの魔法は目にして、その存在を知っている。
「アイスポーン――!」
 宗一の周囲に拳大の水の塊が無数に現れ、そしてそれは凝固して氷塊へと姿を変えた。
 狙いなどなく、無数の氷塊を前方の空間目掛けて叩き付ける。硝子が砕けるような、澄んだ甲高い音色が連続して響き渡った。
 同時に宗一は身を躍らせる。今の魔法で敵に居場所を気付かれてもおかしくはない。その証拠に、
「ファイアーガン!」
 紅蓮の火球が、砂煙を吹き飛ばしながら一瞬前まで宗一がいた場所を貫いていた。
 一瞬、宗一の網膜に相手の姿が映った。よし、と内心で宗一は拳を握る。これで、相手の居場所は掴めたのだから。
 距離にして十メートルほど。その方向目掛けて宗一は、
「は、ぁっ!」
 ただ一つの武器であるはずの剣を、全力で投擲した。
 くるくると回転しながら空を切り裂いて飛んでいく長剣。
 あの馬鹿、という声が観客席から発されたが、それを耳に入れず、宗一は疾駆していた。その手を、ボロボロの白衣の内ポケットにねじ込んで。
 宗一に一キロ以上の物体を何メートルも投げる程の筋力はない。長剣は相手に傷一つ負わせることなく、地面に突き刺さっただけだった。
 ――だが。
 僅かに、一瞬。相手の男は、飛来する物体に、視線を奪われていた。だから、懐に飛び込んで来た宗一に、対応出来ない。
「……俺の、勝ちです。降参してください」
 男の喉元には、細い棒状の物体――ボールペンが突き付けられていた。

 土煙が晴れていく。会場全体を覆う静寂。それを破ったのは、 「そ、それまで!」
 宗一の勝利を告げる、高らかな審判の声だった。
「う、嘘だろ? 勝っちまったぜ、アイツ……」
 声を震わせる俊駕の顔には、驚きと喜びがない交ぜになった表情が浮かんでいる。
「ふん……」
 桃耶と俊駕には、不満げに鼻を鳴らす雪慈の頬がどこか緩んでいるように見えた。
 割れんばかりの歓声と拍手の渦が競技場内を包み込んでいる。それは、誰一人として予想していなかったであろう宗一の勝利に向けられたもの――。
「だから拙者の言った通りでござろう?」
 ――否、ただ一人、彼だけが宗一の勝利を信じ続けていた。
 誰もが無理だと諦めていたのに桃耶だけが。
「やっぱお前無茶苦茶だな。」
 俊駕が不思議と微笑みを桃耶に向けると、不意に俊駕は誰かに頭を打たれた。
 反射的に振り向くと其処には真っ青な顔をしたミレイが立っている。
「宗一が心配じゃないの?」
 宗一を見下ろしてみれば、勝ちと云う言葉に脱力したのか会場に宗一が倒れ込んでいた。ミレイが杖を構え、桃耶と俊駕が駆け寄ろうとした時、皆は信じられない光景を見た。