異邦人
 桃耶が地面を一歩踏みしめるごとに砂埃が舞い上げられる。桃耶は一歩ごとに加速を続け、舞い上げられる砂埃もまた激しさを増していく。
 観客席から見れば、砂埃は、骨と皮しかないような短針痩躯の男を中心とした円を描いているように見える。次第にそれが狭まり始め、やがて止まった。土色の煙の中に、淡い水色が尾を引いている。
 桃耶は、一定の距離を保ったままぐるぐると男の周りを走り続けていた。
 二人の距離はおよそ五歩。だが、それはあくまで常人に換算しての五歩だ。彼らにとっては、一足飛びの間合いの僅かに外側でしかない。
 もし桃耶が円の半径を一歩――否、半歩でも狭めれば、その瞬間に二人は互いに必殺の間合いの内に入るだろう。
 尚も桃耶は加速を続けていく。渦を描いて巻き起こる砂煙が、風に流されて舞台全体を覆う。今の桃耶は、正しく水色の風だった。
 だが、それ程の速さを目にして尚、男は余裕の笑みを崩さなかった。その唇の端が、凶暴に吊り上げられる。
「ハ――間抜けが」
 今の二人の距離は、間合いの僅かに外。だがそれは、徒手空拳の場合での話だ。互いに徒手ではあるが、男にあって桃耶にないものが、一つだけあった。それは――
「インパルス!」
 男の言霊と共に、閃光が迸った。同時に、ドン、という唸り声にも似た低い轟音が弾ける。雷鳴と共に大気中を伝わった電撃が爆ぜ、男を中心に炸裂したのだ。
 魔法に間合いは関係ない。先程桃耶自身が口にした言葉だ。無論限度はあるが、この会場内であればどこにいようとも大抵の攻撃魔法の射程に収まっている。
 大気を震わせる衝撃波によって砂煙の円が一斉に広がった。インパルス自体の破壊力は小さくとも、軽い飛沫や粉塵程度ならば、吹き飛ばすことなど造作もない。
 すぐさま男は首を捻り、周囲に視線を巡らせた。インパルス程度で桃耶に致命傷を負わせることなどは出来ない。だが、隙を生み出すことは可能だ。衝撃波を受ければ、桃耶が耐性を崩すことは間違いなかった。
 その時、淡い水色が男の目に留まった。砂煙で隠されてはいるが、見間違えるはずもない。桃耶の着流しだ。
 獣じみた凶暴な笑みが男の口許から顔一杯に広がっていく。薄い男の筋肉が隆起し、力強く地面を踏みしめた。不安定に宙を泳ぐその着流し目掛け、男は弾丸もかくやという速度で突進し、握り締めた拳を振り下ろした。
 鋼鉄のように硬い男の拳が水色を捉え、そして。
 ――バガン、と。
 三度、男の拳は、岩盤を砕いていた。
「は……?」
 目を見開く。確かに男の拳は桃耶の着流しを捉えていた。だが、拳に帰ってきた手応えは、柔らかい肉を潰す感触ではなく、硬い岩盤を砕く感触だけ。
 微かに、風が流れた。そよ風と共に砂煙が流され、男は初めて自分の拳を見た。
 そこにあったのは、着流しだけだった。あるべき生身の肉体が、存在しない。
「獣足――」
 静かな声が、男の耳朶を打った。まさか、と声の元へと視線を投げ――その瞬間には、既に遅かった。
「――猪!」
 男の両目が桃耶の姿を捉えたのと、桃耶が男の懐に入り込むのは同時だった。
 疾風の如き速度で男へと肉薄し、桃耶はその速度のまま――否、さらに一歩、その強靱な脚力を以て加速し、男の脇腹目掛け、全力の蹴りを叩き込んだ。
 横殴りに男の体が吹き飛ばされる。あまりに軽い男の体は、まるで風船のように高々と宙を舞い、やがて重力に従って地面に叩き付けられた。
 衝撃で地面にひびが入る。
 観客席から溜息が漏れた。あれだけの高さから落下して無事で済むはずがない。医療班が既に駆けつける準備をしているし、俊駕や宗一は息を呑んでいた。表情にこそ出しはしないが、雪慈もまた男の命に関わるのではないかと案じずにはいられなかった。
 だが、静まり返った会場の空気を、
「――お主、どうなっているでござる……」
 桃耶の言葉が、吹き飛ばした。
 褌一丁の桃耶は手早く着流しを纏い、帯を締める。その視線は、絶えず油断なく男に向けられていた。
 仰向けに地面に転がったまま男は微動だにしない。だが、それは桃耶の警戒を解く材料たり得なかった。何故なら桃耶は、この男がまだまだ戦えると知っているのだから。
「三文芝居はいらぬでござる、早く立ち上がるでござるよ」
 左を前にした半身の姿勢で、桃耶は言った。俄に会場全体がざわつき始める。
 まだ動けるのか、まだやるつもりか、何言ってるんだ、という声が至るところから噴き出すが、今の桃耶にとってそれらは雑音でさえなかった。全ては意識の外。彼の思考は全てが眼前の男との戦いに勝利することだけで占められている。
 やがて、地面に横たわった男の体が、ゆっくりと動いた。緩慢な動作で上体を起こし、そのまま手を突いて立ち上がる。
「やるねえ。自分の服を脱いで囮にするなんて」
「空蝉の術――風に聞く忍びの術でござるよ」
 本来の空蝉の術とは多少異なるが、ぶっつけ本番にしては上手くいった方だろう。実際、本来ならば今の一撃で仕留められているはずだったのだ。だが、男には通用しなかった。
「しかも、まさかアレを避けられるなんてなぁ」
 インパルスの範囲は狭い。だが、魔法を発動した次の瞬間には、衝撃が相手に襲い掛かっているはずなのだ。事前に察知しない限り躱すことは不可能なはずなのだ。だが、早く動きすぎれば空蝉の術は成功しない。ほんの一瞬のずれが失敗に繋がるはずだったのだ。
「どうやってインパルスの発動のタイミングと範囲を見極めた?」
 そんな男の問いに対して桃耶は、
「勘でござるよ」
 あっけらかんと言い切った。
 鍛え上げられた脚力だけではなく、動物じみた勘と、研ぎ澄まされた直感こそが、桃耶にとっては最大の武器だった。
 敵わないね、と男は苦笑する。
 それより、と。桃耶は目を細めた。
「もう一度訊くでござるよ。お主の体、一体どうなっているでござる?」
「さあてね。別に普通さ」
 戯けたように男は言うが、桃耶は誤魔化されなかった。疑いではなく確信があっての問いなのだ、易々とはぐらかされるはずもない。
「その、鉄のように硬い体が普通でござるか?」
 まるで鉄塊を蹴ったような鈍い痺れが、桃耶の右脚に残っていた。
 一体どのような絡繰りでござろう、と桃耶は思案する。先程雪慈が対戦した男のように得意体質だろうか――そう考えた桃耶の目に留まった物があった。
 男の服が破れ、そこから赤い顔料で描かれた模様が覗いている。それは、言うまでもなく魔法陣だった。
「なんだ、気付かれちまったか」
 そう言うと、男は破れた服を脱いで、その場に放り投げた。複雑な一塊の模様が男の体に描かれているのがよくわかる。
 ようやく合点がいった。男は、全身を鉄のように硬くする、身体硬化の魔法を使っていたのだ。そう考えれば、殆ど筋肉が付いていない男があれだけの破壊力を生み出せたのも頷ける。臂力を上昇させる魔法も併用しているのだろう。
 衣服を脱いだ男の体を見て、宗一は首を傾げた。
 桃耶が言っていた男の体が硬いというのは、ソリド――身体硬化の魔法――によるものだろう。だが、そう考えると納得のいかない部分が出てくる。
「マイティさん。あの魔法陣、ソリドの魔法陣じゃないですよね。かといってグロゥスとも違う。マイティさんなら何かわかりませんか?」
「……もしかすると、合成紋章かもしれない」
「合成紋章?」
 マイティの言葉に、宗一の隣にいた俊駕がオウム返しに訊ねた。無言でマイティは頷き、
「普通の魔法と同じように、紋章術にも合成魔法があるんだ。それが合成紋章」
 ルースがマイティの言葉を引き継ぐようにして答えた。
「けど、合成紋章っていうのはかなり難しいんだ。二つの紋章を一つにするわけだから、下手するとどっちの魔法の効果もない、ただの模様になるかもしれない。学校によっては中学の卒業前くらいで教えるかもしれないけど、中学卒業で使える人は少ないんじゃないかな」
 本来ならば中学で教える技術ではないということだが、ルースの言葉によれば、学校によっては教えることもあるという。規程にはギリギリ接触しない、グレーゾーンの技術だ。
「だが、何故効果がなくなるかもしれない危険を冒してまであの男は合成紋章を使っているのだ? 二つ描けばよいだろう」
「合成紋章によって得られる利点は二つ。一つは、魔法の効果を高められるかもしれないこと。中級魔法の合成は上級魔法にも匹敵するんだ。組み合わせ次第では、少ない魔法力で大きな効果も期待出来る」
 ぴん、と人差し指を立ててマイティは雪慈の問いに答えた。続いて中指を立てる。
「もう一つは、一つの紋章で複数の効果を生み出せるということ。強化系の紋章は強化したい場所に描くものなんだ」
 たとえば、足を速くしたいのならばラナンの紋章を足に、腕力を強化したいのならばグロゥスの紋章を腕にといったように。
「全身を強化したい場合は体の中心――臍の少し下に描かなくちゃいけないんだ。けど、二つの紋章を描くことは出来ない。だから合成紋章で一つにまとめるのさ」
 臍の下――下丹田と呼ばれる場所か、と宗一は納得していた。東洋医学や東洋武術では、人体において最も氣を練るのに適しているとされる場所。そう考えれば、そこに紋章を描くのが最も効果的だというのも頷ける。
「けど、それってやばくねえか? いくら桃耶が馬鹿みたいに強いって言ったって、相手はそんな凄い魔法使える奴なんだろ?」
 実際、先程の桃耶の蹴りは殆ど効いていなかったのだ。俊駕の心配も尤もだが、それをミレイは笑って打ち消した。
「大丈夫大丈夫、ルースにだって出来るんだもの、難しいって言ったって高が知れてるわよ」
「そりゃないだろ、ミレイ……」
 相変わらずミレイはルースには厳しいらしかった。宗一や俊駕は苦笑するが、合成紋章が高等技術だということに変わりはないのだ。二人の笑みは引きつっていた。
 そんな二人の心情を察したのか、心配ないよ、とマイティは微笑みを浮かべた。
「まあ、ソリドもグロゥスも下級魔法だからね。合成して引き出せる効果はそうそう大きくないはずさ。それに――」
 くすり、と笑みを零して、
「俺には、桃耶さんがこの程度の相手に負けるなんて、想像出来そうにもないよ」
 だから安心して、彼の勝利を信じよう、と。マイティは、その表情に確信を滲ませて言った。

 ふぅ、と桃耶は長く息を吐き出した。空気を肺一杯に満たして、もう一度大きく吐き出す。
 足の痺れもある程度は抜けたし、両腕の痛みも随分とマシになった。左腕は骨に異常があると見た方がいいだろうが、右腕は一応無事らしかった。尤も、左腕をぶら下げているわけにもいかないので、右腕も使えないという事実に変わりはないのだが。
 ――どうしたものでござるかなぁ。
 微かに痺れの残る右脚を庇いながら、桃耶は考える。考えるのだが、佐々木桃耶という人間は、それで上手い考えが思い付くタイプではなかった。
 至ったのは先程の結論、足での勝負。だが、どうやって? 足で勝負しようにも、相手は魔法を使ってくるだろう。桃耶には、これまでに見た魔法は全て躱す自信があったが、かといってそれで全てが解決するわけでもない。
 自分にも魔法が使えたら――そう考えて、ふと桃耶は一つの考えに思い至った。
『魔法力って限界、あるんだ』
 それは俊駕の言葉だった。魔法力というものがない桃耶にとってはさっぱりだったが、つまり魔法力という物は消耗するらしい。そして、その魔法力がなくては魔法が使えず、また紋章を描いても効果を発揮しない。
「その手があったでござるな。いくでござるよ……獣足、馬!」
 口許に笑みを浮かべ、桃耶は地面を蹴った。
 先程同様、ぐるぐると会場全体を、相手の男を中心とする円を描くように走り続ける。