異邦人
「これでもかというほど飛ばしたからさすがに疲れたでござる」
 息を荒立て――段々と正常な呼吸に戻ったが――汗をドッと掻いていた。そして、俊駕は息を呑み、彼の場合違う汗がドッと出る。
「堅苦しいのは普段着る分には息苦しくてしょうがないが、こういう場だと大変ふさわしいでござる」
「へぇ、えらく格好が変わったじゃないの」
 対戦者が賛辞ともいえない言葉を吐く。
「桃耶さん、その格好――」
 脱ぎっぱなしというのはよくないでござるなぁ。と、今まで着ていた服と草履を宗一に渡す。
「これは拙者がこの前までいた世界のものでござる」
 自慢そうにくるりと回って見せる。
「向こうでいろいろとたらいまわしにされたが、最後はここに落ち着いたでござる」
 俊駕は言葉が出なかった。
「審判殿、間に合ったでござるか?」
 審判が答えないということはぎりぎりということだろう。
「このぶーつなら――」
 地面を数度足踏みする。
「獣足・熊」
 左足を胸の高さまで上げて地面に打ち付けると、その地面を中心に放射状にひびが入り、俊駕のところまで届く。
「うおっ」
「と」
 今度は右足を目線まで上げ、
「象」
 同じように地面に打ち付けると、今度は亀の甲羅をひっくり返し押し付けたように――クレーターの様に――地面がへこむ。半径は人一人分くらいある。
「これをやっても足はさほど痛くない」
 よし! と桃耶は自分に気合を入れる。
「では、これからは遊びは抜きでござる。少々こちらも気合を入れてこの試合に臨むでござるよ」
 開始の合図がとられる。
「この、時空守護官の戦闘服で――」
 この言葉を知っているのは、桃耶と俊駕だけであった。

 ドクン、と俊駕の胸が波打つ。

「獣足、猪!」
 桃耶は女に向かって一直線に走り出し、何度目かの砂煙を大いに撒き散らした。まさに猪突猛進。だが砂煙が消える頃には桃耶は既に走っていなかった。回ってもいなかったし、跳んでいたわけでもなかった。常人には目にも留まらぬ速さで女とやりあっていた。
 女が回し蹴りをすると桃耶は髪だけを残して体を沈め低い体勢のまま女の足を掬おうとしたが女は側転をして交わし着地と同時に身を屈めて桃耶の蹴りを避け間合いを詰めて拳を振り上げるが数発のうち一発も直接の傷にはならずただ女の手をかすめた桃耶の頬に小さな血が流れた。

 ふと、宗一が気づいた。
「どうしたんですか、俊駕さん。顔色悪いですよ?」
「え。あ、いや……そうか?」
 俊駕は桃耶から目を離さずに顔を覆った。参ったな、と頭を掻くが、その胸の内を知る者は俊駕以外にいない。彼の表情からして桃耶の心配をしているだけではないことは分かるのだが。

 女の手刀を思い出した桃耶は思わず苦笑した。何たる不覚。しかしそれでなければこの服に着替えた意味はない。再び彼女の手刀での攻撃を交わすと今度は桃耶からの攻めに転じた。呆気なく反撃を許してしまった女の顔からは、それでも焦りの色一つさえ見出せない。
「そろそろかな」
 女は一人呟いた。その声を耳にかすめたのは間近にいた桃耶だけだ。何が”そろそろ”なのだろうか。と桃耶の疑問が脳裏に過ぎったのと、女が動いたのは同時だった。
 一瞬、女が大きく飛び退いたように思えた。しかしそれは、桃耶の動きが鈍くなっただけに過ぎなかった。桃耶自身がそのことに気づくのに、そう時間はかからなかった。
「お、およ?」
 危うく躓きそうになり、慌てて態勢を整える。何とか踏みとどまったものの、急激に体が重くなった。
「なんでござるか、これは!?」
 驚きのあまり叫ぶと女はくすくすと笑った。
「気づかなかった? ココはさっきあたしが魔法をかけた場所よ。あたしはまだ、解除魔法をかけていないんだもの」
「なるほど、だがしかし、拙者には屁でもないでござるよ」
 思い圧力に両足で踏みとどまる桃耶はニヤリと笑って見せた。時空守護官のブーツのおかげか、草履よりも足への負担は遥かに軽い。これなら押し潰される心配はなさそうだ――このくらいの重力ならば。
「そうみたいね、残念だわ」
 女は遠くから眺めるように桃耶へ笑顔を向けた。言葉とは裏腹に全く残念そうには思えない。
 桃耶はそんな彼女を無視して地を蹴った。さっきまでのとは比べ物にならないが、それでも常人よりは速いスピードで駆け出していた。
 ゾーンを抜けると桃耶の姿が消えた。……速過ぎて見えなくなったのだ。

 観客席に、桃耶の姿を追うことが出来た者がどれ程いたことだろう。一人、あるいは二人――正確な人数を挙げるとすれば、四人。
 急激な加速はあらゆる者の動体視力を振り切り、一息とかけずに桃耶は女に肉薄、懐に飛び込んでいた。
「ふっ!」
 鋭く息を吐き出しながら、左足を軸に女の顎目掛けて右足を跳ね上げる。風が唸る。目にも留まらぬ――否、目にも映らぬ疾風の蹴り。
 だが、女はそれを苦もなく上半身のスウェーだけでやり過ごし、そればかりかその体勢のまま、バク転の要領で脚を振り上げ、意趣返しとばかりに桃耶の顎目掛けて蹴りを放った。
 無論それを受ける桃耶ではない。右脚を振り上げた体勢から体を捻り、紙一重で女の一撃を躱していた。
 同時に地面に手を突き反転、再度地を蹴り互いに突進する。  左脚が交差し、互いに弾かれる。
 袈裟懸けの女の手刀は横合いからのパリーで軌道を逸らされ、桃耶の交差法の前蹴りは空を切った。
 体を捻って蹴りを回避した女は、勢いをさらに上乗せして後ろ回し蹴りを放った。
 無慈悲な鈍い音と呻き声。蹴りを受けた桃耶の左腕は、あり得ない方向に曲がっていた。
 蹴りの破壊力に押され、桃耶が踏鞴を踏む。
 好機、女は振り抜いた足をさらに踏み込み、桃耶の後頭部目掛け右脚を振り抜いた。
 桃耶が笑い、女は目を見張った。
 よろめいた桃耶はそのまま地面に倒れ込みながら膝を折り畳み、押し縮めた撥条のようにそれを弾けさせる。
 だが、女の反応も迅速だった。鳩尾に突き刺さるはずの桃耶のブーツを左腕で受け止める。片足一本で受けきれる衝撃ではなく、女の体は宙を舞い、地面を転げていた。
 お互い受け身もままならぬまま地面に叩き付けられ、桃耶は再び折れた左腕の痛みに顔をしかめた。
 立ち上がり、桃耶が自分の左腕を服の上から撫でさすってみると、ぐにゃりという不快な感触。激痛が電流のように駆け抜けた。触れるまでもなく骨折していることは明らかだったが、触れたことで桃耶は自分の腕が折られたのだという事実を改めて認めた。
 激痛に表情を歪めながらも、桃耶の口許には笑みが浮かんでいた。その視線の先には、腹部を押さえながらも立ち上がる女の姿があった。
「あの蹴りを受けて立ち上がれるとは、流石でござるな」
「あんたこそ。その腕、折れてるんでしょ」
「それはお互い様でござる」
 見れば、女の左腕も桃耶と同様、奇妙に折れ曲がっていた。手首の上に、もう一つの関節があるように。
「だからといって、ここでやめる理由にはならぬでござるな」
 桃耶が戯けるように左腕を軽く揺すると、女は心底楽しそうに口許を歪めた。
「当、然っ!」
 言うが早いか、女が疾駆する。一直線に駆けていたかと思えば左右への小さなステップを織り交ぜ、一息の間に二人の距離は再び零となっていた。
 腹を突き刺さんとする貫手、顎目掛けての蹴り、後頭部狙いの裏拳。
 そのどれもが一度で戦闘不能に陥るに足る一撃だが、そのどれもが必殺には遠く及ばない。
 動体視力と瞬発力、その全てを最大限に発揮して相手の一手先二手先を読んで躱し続ける。全ては、読みと反射の為せる業。  瞬息の一撃を躱し弾指の一撃を放ち、刹那の一撃を躱す。運動能力の限界など知らぬとばかりに加速を続ける攻防。
 もう長くは戦えない――その言葉を覆すかのように女の動きはその廻転を速めていく一方だった。
 右脚一本での三度の蹴り、その悉くを桃耶は見切り、懐に飛び込むと掌打をその鳩尾に叩き込んだ。
 一歩女が後退する。しかしただでは転ばない。掬い上げるようにした爪先が桃耶の胸板を抉っていた。
 押し潰された肺から空気が漏れる。苦悶の声は、けれど微かな笑みに取って代わられた。それは女の方も同じようで、楽しげに笑っている。小さく上下する肩に合わせて、アクセサリが擦れ合い高い音が鳴った。
 ――さて、どうしたものでござるか……。
 膝を曲げ、腰を落としながら桃耶は思案していた。
 このまま続ければ、桃耶が勝つだろう。しかしそれは、相手の右脚が限界を迎えての棄権という不本意極まりない形でだ。そんな形での勝利など望んではいないし、桃耶にとってそれは勝利と呼ぶことの出来る物ではない。
 ならば、彼女の脚が限界を迎える前に彼女を倒さなくてはならない。だが、そうして考えるたびに、堂々廻りで最初に戻るのだ。即ち、どうしたものでござるか、と。
 はっきり言って、相手の女は強い。身体能力も通常の女性のそれを遙かに上回っているし、尚それを上回る桃耶に対し、彼女の技術はその差を補って余りある。
 だが、無論桃耶にも技術という物はある。互いの身体能力、技術、勘――その全てを考慮すれば、二人の実力はほぼ互角だった。
 力が拮抗していては、戦局は動かない。戦局を動かすには、どちらかが意図的にその拮抗を崩さねばならない。女にその意思はあるのかどうか。あるならそれで良し。ないのであれば、彼が拮抗を崩すしかない。
 ――どうしてものでござるか。
 三度、思案する。
 拮抗を崩す……言葉にするのは簡単だ。だが、それは絹糸の上を綱渡りするのにも等しい、命懸けの行為だ。一歩間違えば、拮抗を崩した瞬間に女の手刀が桃耶の息の根を止めてもおかしくはないのだから。
 しかし、考え事をしている余裕はもうなかった。地面を蹴って女が接近してくる。
 そして、桃耶は悟る。女に拮抗を崩すつもりはないのだということを。彼女は誘っている。桃耶が拮抗を崩すのを。長期戦を嫌うのは同じ、だが脚を痛めている女に、自分の力を抑える余裕などないのだから。
 女の攻撃は、疾く、そして激しい。
 胸への蹴り、顔面への掌打、袈裟懸けの手刀。疾風怒濤の連撃、その全てを桃耶は躱し、あるいは弾き、受け止める。
 だから、次の一撃に桃耶が反応出来ないのは自然だった。
 鋭く薙ぐような足払い。左足を刈り取られ、桃耶の体勢が崩れる。そしてそれは、拮抗の崩壊を意味していた。
 正真正銘、女にとっては最初で最後の絶好の好機だったろう。鋭い刺突のような手刀が、桃耶目掛けて放たれる。
 ――だが。
 それは、桃耶の頬に紅い線を引くに止まっていた。
 折れた左腕でのパリー、そして、
「肉を切らせて骨を断つ――捕まえたでござるよ」
 桃耶の右手が、しっかりと女の手首を掴んでいた。
「な!?」
 桃耶は軽く女の手首を捻り、女の腹を蹴り上げる。女は大きく跳ねてからその場に落ち着いた。
 覗き込むように女を見下ろす桃耶。
 一瞬の静寂。
 その後に女は桃耶を蹴り飛ばしたが、直ぐにその場に崩れ落ちる。桃耶にはそれが何だか直ぐに分かった。
 先程の攻撃の反動で桃耶が蹴り上げた腹の骨が折れた痛みが表れたのだろう。仰向けに倒れると、女は腹を押さえた。
「あたしの負けだわ。」
女は空を見上げながら呟いた。しかしその顔には極上の笑みが浮かんでいる。
満足出来たのだ。桃耶もそうだからよく分かる。
「そ、其処まで!」
 信じられないと云うような審判の裏返った桃耶の勝利を告げる声。桃耶は足を引き摺りながら動けないでいる女に手を差し延べた。が、女は目を閉じて首を横に振る。
「あんたも大怪我してるでしょ?それにあたしには――。」
 急に女は観客席の方に目を向けた。指を動かして誰かに此方へ来るよう合図する。
「まーくん、疲れた。おんぶして。」
「・・・は?」
 全員の視線が泣きそうな顔をしているマイティに注がれた。
 暫く皆呆然としていたが、急にミレイがマイティの腕を引っ張って二人の元へ歩み寄る。宗一と俊駕も思い出したように桃耶に駆け寄った。
「トウヤ、何骨折ってんの?」
 と。ミレイが飛び切りの笑顔を桃耶に向ける。