異邦人
 夕飯を全て胃の中に収め、後は寝るだけだというのに、俊駕はどうしてもテーブルを離れる気にはなれなかった。水を飲みすぎた所為で水腹が重いというのは勿論あったが、最大の理由は別にあった。胸の下の方に、どろりとした何かが渦巻いている。それが陰鬱になった気分にさらに影を落とし、俊駕の体を鉛のように重たくしていた。
 ――動きたくない。
 何をする気にもなれず、俊駕はテーブルに突っ伏した。
 どうせ部屋に戻ったところで、寝ているとはいえ宗一がいるのだ。先程の対応は自分でも不自然だったと思う。向こうは眠っていても、こちらはどうしても意識してしまう。
 ならば部屋に戻るよりもこうしていた方がずっといい。それに、今は一人になりたい気分だった。
 テーブルに突っ伏したまま、俊駕は大きく溜息を吐いた。良く磨かれたテーブルの表面が一瞬だけ曇る。
 何故こんなにも息苦しいのだろう。自問してみて、わかりきった答えに俊駕は苦笑した。負い目だ。犯罪者であるという負い目、時空守護官である桃耶に対する負い目、桃耶の制服を投げ捨てた自分に対する負い目――。
 思えば、負い目だらけだ。宗一も何かしらのコンプレックスを抱えているようではあったが、宗一は恵まれている人間だろう。そういったコンプレックスを抱くことが出来るのは、コンプレックスを抱く余裕がある人間だけなのだから。
 コンプレックスと負い目は似ているようで全く違う。負い目は、罪の意識にも似ていた。
 制服がないことに気付いたら、桃耶はどう思うのだろう。どのように驚き、どのように慌てるのか。あるいは、困ったでござる、の一言で済ませてしまうのかもしれない。そのどれもが容易く想像出来て、俊駕は思わず笑みを零した。
 桃耶は確かに自分にとって都合の悪い相手だ。けれど、時空守護官という要素さえ取り除いてしまえば、今となっては桃耶に対して抱いている感情は好感以外にはあり得ない。
 だから、その先を考える。
 制服がないことに気付いた桃耶は、誰かを疑うだろうか、自分を疑うのだろうか――そう考えて、それが無駄な疑問であることに気付いた。
 桃耶が俊駕達を疑うはずがないのだ。アレは、人を疑うことを知らない人間だろう。縦しんば知っていたとしても、仲間を疑おうとするはずがない。
 仲間。その単語が思考を過ぎった瞬間、俊駕は思わず奥歯を噛み鳴らしていた。
 また、仲間に負い目を作ることになるのだろうか。誰も俊駕を疑いはしないだろうが、だからこそそれは何よりの負い目になる。
「くそっ……」
 悪態を吐きながら、俊駕は立ち上がった。

 ベッドに潜り込んだ宗一は、眠れずにいた。一度は眠りかけたのだが、ドアの向こうから聞こえてきた物音で目を覚ましてしまったのだ。何かあったのだろうか、と考えて、俊駕が何かしたのだと結論付けた。
 俊駕の様子がおかしいのは明らかだった。慌てていたし、どこか苛立っているようにも見えた。医者として患者と向かい合うことには慣れていたこともあって、宗一は自分の観察眼をある程度は信用している。信用はしているが、自分の能力に対する信頼はなかった。
 様子を見に行った方がいいかもしれないとも思ったが、結局そうすることはなかった。
 俊駕が逃げるようにして部屋を出て行ったのは何かしらの理由があったはずだし、人間は誰であっても一人になりたい時という物がある。たとえば、今の宗一のように。
『努力して手に入れたものって、何にも役に立たないからな』
 先程のルースとの会話が、ぐるぐると思考を廻っている。
 ルースの言葉が正しいかどうか、宗一にはわからない。けれど、間違っていないのだろうとは思う。それはルースが今までに積み重ねてきた物――経験の導き出した答えなのだから。少なくともルースにとっては絶対的に正しい真理なのだろう。
 ならば、自分にとってはどうなのだろう――その問いに対する答えは簡単だった。受け入れるわけにはいかない。正しいか否かは関係なく、ルースの言葉をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
 宗一には、才能がなかった。才能がなかったからこそ誰よりも努力し、誰よりも経験を積み上げてきた。今の宗一を支えている物は努力をしてきたという事実以外にはない。
 ルースの言葉を受け入れるということは、宗一のこれまでの人生全てが無駄であったと認めることなのだから。
「は……」
 宗一の口から、自嘲の笑声が零れた。
 ――一度は死のうとしたというのに。
「そういえば……」ぽつり、と呟く。
「どうして俺は死のうなんて思ったんだろう……」
 あの少女を助けられなかったから? 違う、それだけで死のうと思ったわけじゃない。助けられなかった患者は今までにも沢山いた。末期の癌患者、手の施しようのない交通事故の被害者。助けられなかったのはあの少女一人ではなかった。
 けれど、自分の無力を痛感したのは、あの時が初めてだった。
 自分の積み重ねてきた努力は無駄だったのではないか。そう思ったからこそ、自殺しようとしたのだ。
「は、ははは……」
 なんてことはなかった。疾うに気付いていたのだ、ルースの言葉の正しさに。
「俺は、なんて――」
 ――無力なのだろう。
 自分には何も出来ない。自分の積み重ねてきた努力を否定された今、宗一には何もないも同然だ。あの少女を助けられなかった時と、同じように――。
 けれど。
 宗一の中の何かが、必死にそれを否定していた。今までの努力は無駄ではなかったのだと、努力してきたからこそ得た何かがあったのだと、そう訴えている。
 理性よりも深い部分、本能の最後の最後で、宗一はルースの言葉を拒んでいた。
 努力してきたからこそ得られた何かがある。
『俺がやって高校中退で気づいたことは、そんな努力はするだけ無駄って事。努力じゃなくて、自分の中の本当に知りたいことを知ろうとする力なんだ。それが本当に手に入れられるもので、なおかつ使えるものだと思ってる』
 ルースの言葉を思い出す。
 努力――その言葉の意味を、もう一度噛み締める。
 何故自分は医者になろうと思ったのだろう。医家の生まれだったから? 父親に認められたかったから? 自分のプライドを満たしたいと思ったから?
 そのどれもが正しくて、そのどれもが間違っている。
 簡単な話。
 自分の手で誰かの命を助けたいと思ったからだろう。人の命を救う父の姿に憧れたからだろう。
 だから誰よりも必死で勉強し、“努力”した。
 ルースの言った努力と宗一のしてきた努力は違う。嫌なことをしてきたわけじゃない。自分が憧れた物、なりたいと願った姿に近付くために、宗一は努力したのだ。
 努力をした。その結果孤独になった。けれど、確かに夢は掴んだのだ。けれど小さな命を救えず、絶望し――そして、この世界へとやって来た。
 この世界で、今まで知らなかったことを知った。友を得た。生まれて初めて、心の底から笑った。
 けれどそれは、元いた世界での努力があったからこそ経験出来たことだ。
 ならば、何を悩む必要があるのだろう。
 努力で得たのは知識だったかもしれない。けれど、確かに自分はなりたい姿に少しでも近付いていけたのだから――。
 ルースの言葉は正しいのかもしれない。けれど、ルースの言う努力と宗一の努力は違っていた。
 これまでの自分の人生は無駄ではなかった。宗一の努力は決して無駄ではなかった。それだけは、自信を持って言える。
 穏やかな気持ちで、宗一は目を瞑った。
 眠りに落ちる直前、乱暴にドアを閉める音が聞こえたような気がした。



 桃耶は悩んでいた。
 一度豚汁にするとは決めたものの、いざ実際のものを見ているともう一品くらい拵えられるのでないかと思ってしまう。
 取り敢えず腹を豚汁に使うとして頭や足はどうする。丁度四人であるから一人一足ずつで――。それで何を作ろう。
 桃耶が真剣に悩みながら木陰で祭りの様子を見ていると、不意に視界が真っ暗になった。
 相手に敵意が感じられないので桃耶は視界を開こうともせずに問い掛ける。
「お主は誰でござるか?」
「あら?あんなに楽しい戦いをしたのにもう忘れちゃったの?」
 急に視界が明るくなったと思うと目の前にはマイティの顔が あった。その隣りにも見覚えのある女が悪戯っぽい表情を浮かべて笑っている。
 今は試合の時とは違い地味な榛色の服を着ている。あちらこちらで見当たるデザインなのでこの世界の普段着のようだ。が。
 何せ試合の時からは想像も付かない程地味な服だ。少し拍子抜けするような感覚もある。桃耶はマイティの姉なる女の肩に手を置く。
「もう歩き回っても大丈夫でござるか?」
「まーくんは駄目って言うんだけど祭りは騒がなきゃ損。違う?」
「その通りでござる!」
 桃耶は大口を開けて豪快に腹を抱えて笑った。女も釣られて腹を抱えて笑い、痛そうに蹲る。
「姉さん、良い加減に学習しなよ。」
「五月蠅い。」
そう言うと女はきっとマイティを睨み付けた。
「ね、トーヤ、一緒に祭り、回らない?」
女が微笑むと桃耶も微笑んだ。そして頷く。
「そうするでござる。」
「だって。まーくん、行くよ。」
「行くよって・・・。足が――!」
 女は小言を言おうとしたマイティの口を怪我人とは思えぬ速さで塞いだ。そして桃耶に向けるのとは別の種類の笑顔を向ける。
 ――それが身の毛の与奪ような笑みだったとは云う間でも無いだろう。
「まーくん、行こう。」
「・・・桃耶も明日の試合を控えているし。少しだけだよ。」
「堅い事言わない。ね、トーヤ。飲みましょう?」
「友情の盃といくでござるか。」
「あ、それ良い。ついでに結婚の誓いも交わさない?」
「それは今一つ検討する余地があるでござる。」
「・・・。」
 桃耶は女と肩を組むようにして露店に繰り出した。その騒ぎようと言ったら酔っ払いよりも酷い。
 桃耶にはどの露店も新鮮で、女は一々――桃耶と女の間だけに通ずるように――丁寧に説明してくれた。
マイティには少しだけと言われたが、どうやら長引きそうである。


 ――山は気持ちが良い。人間の汚い感情で濁った雪慈の心を綺麗に洗い流してくれる。
 雪慈は祭りを見下ろしながら木に凭れ掛かっていた。さわりさわりと風が木の葉を揺らしている。
「何をしている。」
「不躾だな。」
「育ちは良い方では無いからな。」
 そう言うとユリウスは雪慈の隣りに座った。雪慈はユリウスに気付かぬとでも言う風に空を見上げる。
 静かだ。雪慈もユリウスも一言として喋ろうとしない。
 だが、その静寂は気拙いものではなく心地良い。
 遠くに祭りの音と風が奏でる音しか響かない。互いに相手の息遣いさえ聞こえなかった。
 が、不意にユリウスが雪慈の方へと首を回す。
「祭りは嫌いか?」
「祭り、と云うより人間が嫌いだ。近くにいると負の感情に押し潰されそうになる。」
「それは済まなかったな。」
「・・・お前は別だ。」
雪慈はユリウスに振り向いた。――夜を背景に、金色の双眸が光っている。
「お前からは動物の臭いがする。」
「動物?」
「桃耶とはまた違った意味の、言うなれば獣だ。」
「そうか。」
 ユリウスは不器用に口の端を歪ませて笑う。
「獣か。」
「獣と言われてそのように嬉しがるとはまた面妖だな。」
「嬉しくは無い。当たっていると思っただけだ。」
「そうか。」
 また二人の会話は費えた。
 雪慈とユリウスは元々無口なのだ。その二人の会話が弾む方が笑可しい。
 が、一応は会話が成り立っていて意思の疎通も出来ている。
 不思議な時間が流れた後、またユリウスが雪慈に話し掛けた。
「アヤカシとはどんな種族だ?どんな宗教を信仰している?」
「宗教、か。それは人間が己の都合の良いように作ったものだ。私達には関係が無い。私達が信じるのは奇妙な神でなく神と云う自然の理と自然と、己だ。」
「自然の理が神、だと?一体どう云う意味だ。」
「神は其処に在るだけ。何もせずにただ世界を回す。」
「神は存在しないと。そう云う事か。」
「物分かりが良いな。」
「いや、確かに在る。――人間には理解出来ぬか?」