異邦人
「女性、恐怖症?」
 こちらでは言葉としては存在しないものの、女性と恐怖症という単語がある限り、その意味も容易に想像がついた。
「俺等が絡んだときは普通に肩を組んでいたじゃないか」
「そのときは当たり前でござる。“女性”としてではなく“人”としてみていたのでござるから」
 戦いのときとは違い、呼吸はかなり乱れたままだ。
「うう。ユタカにもばれずに言葉とその意味だけを覚えたのに」
 ふと、桃耶が独り言をいっていたときに男に疑問がよぎる。
「まて、彼女といっても何も反応しなかったじゃないか!」
「え、彼女とは女という意味なのでござろう? この世には男と女がいるのは当たり前、それくらいはいくら拙者でもわかるでござるよ」
 ああ、拙者の時代では男同士の婚姻もあったために、結婚には動揺せずにすんだでござるに。と、言葉に出しては首を振っていた。
「つまり、女を女として見ていないってことか?」
「あたらずしも遠からず。なんていえばいいものか、うぬぬ。“公の女”としてみる分にはまったく気にせず会って話すことができるが、“個の女”はできぬ。卒倒してしまうでござる」
と、桃耶は言った。
「もし誰をも一人の女性と見たら、拙者は町を歩けないでござるよ。今、拙者の身近にはミレイ殿とティア殿の2人、そう2人もいるでござる! ああ、しかしえいごと同じで克服しようとしてもできるものではござらんし、拙者は拙者が大好きでござるから拙者を変えたくもないし、どうすればよいものか」
 呼吸は元に戻ってもおかしな言葉を減らすことはなかった。
 そして、男のことは放っておいて、しばらくうーむと考えたあと、突然すっきりした顔になり、
「ま、考えても答えなんて出ないし、考えないのが一番でござるな」
 かっかっかと笑って見せる。
「拙者が意識することなんて、まずないから安心でござる」
「なんだかよくわからないが、仲直りはしとけ、あれはかなりの美人だぞ」
「そうでござるか? もう意識はしていないから、別になんともないでござる」
 もうひとつ笑った後、桃耶は屋根を飛び越え飛び越え、診療所の床に就いた。


「えっと。確かこの辺に投げたんだよなぁ」
 茂みを探りながら、俊駕は今訪れた眠気を払い、また奥へと進んでいった。そして、月明かりが風により木の葉を動かすことで俊駕の進行方向へ注がれ、地面に何か光るものが見えた。
 そこまで行くとその光の正体がわかり、それが自分の探しているものであることがわかった。どうやら制服のボタンが光っていたらしい。
「あった」
 とだけ、口に出し、よかったという言葉は心の中で言った。探していたものが見つかったので、帰ろうと向きを反転させたときに、近くの大木に何かが立て続けに刺さる音が聞こえた。
 暗くてよく見えないこともあり、手探りで音のした場所まで手を這わせると何かひんやりしたものを感じることができた。
「氷?」
 それは綺麗に横一線に大木に刺さっていた。
『だれかい――』
 そして、特に押したわけでもないのにその大木は俊駕に押されたように前へ倒れてしまった。
「絶対、いる」
 そう、ここはとある2人が軽い運動をしている場所であり、俊駕が制服を捨てた場所でもあった。
 手に持った制服を知らず握り締め、俊駕は恐る恐る暗闇の雑木林へ足を踏み入れていく。時折風と共にそれとはまた違う異質な音が耳をかすめていった。
 だいぶ木々の間隔が狭くなってきたところで、トサッと足元に何かが刺さった。月明かりに照らされて見えたのは先ほどと同じ、一本の大木を切った氷だった。もう一歩早く足を出していれば確実に自分の足が貫かれていた場所だった。
「ひっ」
 背中を走った恐怖で思わず声を上げてしまった。一歩後退すると、その瞬間その場所にまた氷が刺さる。
「はっ? なんでっ」
 ふと見上げると誰かと誰かがぶつかり合っていた。一人が相手に向かって何かを投げつけると、相手は自分が持つ武器らしきものでそれを跳ね除ける。それが左右に飛び散り、その破片がまたこちらへ向かって飛んできた。
「わわっ!」
 咄嗟にしゃがみ込むとさっきまで頭があった位置に鋭く尖った氷が通り過ぎ、背後の木に突き刺さった。まさに間一髪だ。俊駕は堪らなくなりその場から離れようとした。
 その時地面に刺さっていた氷に躓いてしまった。これがいけなかった。
「誰かいるのか」
 二人に気づかれ、こともあろうか複数の氷が容赦なく尻餅をついていた俊駕目掛けて向かってきたのだ。
「うわ、わっ、あっ!」
 月明かりに反射する氷が次々と俊駕の居た場所へと刺さっていく。それをどうにか転がって避けた俊駕だったが、最後の一つがとうとう俊駕の衣服の端を捉えた。革でできたジャケットは切れることなく俊駕の動きを止めてしまう。
 目の前に見たことのあるような靴が現れた。
「……なんだ、お前か。反射神経だけは随分良いんだな」
 寝そべる俊駕を見下ろしていたのは美しく輝く二つの月を背にした雪慈だった。暗くてよく見えないが、相変わらずの無表情なのには違いない。
 なんだ、と思ったのは雪慈だけではなく俊駕も同じだった。――後半の半ば嫌味とも取れる言葉は無視するとして。そして二人は当然のように同じ疑問をお互いに抱いた。
「何やってんだ、こんな所で」
 まるで呆れたふうに言う雪慈の物言いに俊駕は少なからず腹を立てたが、苛立っていても雪慈がそれに対して反応を示すなどと想像できなかったのでやめた。変わりに持っていた制服を雪慈の視界から隠すように何気なく背に回す。
「雪慈こそ何やってんだよ。つーか早くこのデカイ氷を取れよ」
「そのうち溶ける」
 俊駕に答える気がないと分かった雪慈は興味がなくなったのか、そのまま背を向けてこの場を離れようとした。俊駕は思い切り慌てる。
「おいおい、俺は無視かよ!?」
「――オレが取ってやる」
 違う声が違う位置から聞こえ、俊駕の体は再び固まった。恐る恐るそちらへ見上げると大きな男がいとも容易く氷を引き抜いた。よく見ると昼間一緒に居たユリウスだ。あれだけ長時間共に居たというのにほとんど話さなかったこの男のことを、俊駕はよく覚えていなかった。
「あ、ああ、ありがと…」
 体が動けるようになった俊駕は、しかし地面に座ったままユリウスを見上げるばかりで、全く立ち上がる気配を見せない。
「何か用か」
「……あ、いや、お前って結構イイ奴だな」
 にっこりと満面の笑みを浮かべて俊駕はそう言った。呆気にとられるユリウスを尻目に、今度は俊駕が動かなくなった彼をそこに置いて診療所へ帰っていく。
 ユリウスは雪慈に対してとは全く違う興味を俊駕に持った。
 イイ奴と評されたのは、ユリウスにとって初めてのことだった。
 顔立ちは整っているが、無表情な上に寡黙であるユリウスは、決して人付き合いが得意というわけではない。むしろ不得手と言っていい。
 彼が親しく接する事が出来ているのは、マイティ、ルース、ミレイの三人だけだ――それについ最近、四人程加わったのだが。桃耶は理解出来ないし、宗一とは特に話した事はなく、雪慈には親近感を覚えた。そして最後の一人――俊駕は、自分を“イイ奴”と言った。
 不思議な男だ、と思う。それを言ったら桃耶の方が断然不思議なのだが、俊駕には桃耶や雪慈にはない何かがある。その何かがどういう物なのかはユリウスにもよくわからないのだが、彼は自分の直感には信頼を寄せていた。
 戦士というものは、多かれ少なかれ己の直感を信頼しているものだ。ユリウス程の手練れともなれば、尚更だろう。
 何故、たったあれだけのことでろくに言葉を交わした事もない相手を“イイ奴”と評する事が出来るのだろう。
「何を考えている?」
 木々の間で立ち尽くすユリウスを疑問に思ってか、雪慈が抑揚のない声で訊ねた。
 どうやら、立ち去ろうとはしたものの、結局この場に止まっていたらしい。
「あの男は、どんな人間なんだ?」
「……俊駕のことか」
 ユリウスは無言で頷いた。
 雪慈ら四人はそれぞれ別の世界からこの世界にやって来たという話だが、雪慈と俊駕の付き合いは、ユリウスとのそれよりもずっと長いのは間違いないのだ。
 だからユリウスは雪慈に訊ねてみたのだが、
「知らん」
 雪慈の答えは、ユリウスの期待を根本から断ち切るものだった。
「言ったはずだ、私にとって人間は忌むべき存在であると。私のいた世界の人間とこの世界で出会った人間が違うことは認める。だが、それだけだ。あの男もまた人間であるという事実に変わりはない」
 冷たい声音で淡々と雪慈は続ける。ユリウスは黙ったまま、彼の言葉に耳を傾けていた。
 雪慈が押し黙るようにして口を閉ざした。
 そよ風が流れ、木立が揺れる。さわさわという葉擦れの音だけが、二人の間の沈黙を破る。やがてその微かな音さえ消え、夜の帳が全ての音を遮ってしまったかのような静寂が訪れた。
 どれ程無言で佇んでいたのだろう。
 不意に吹き抜けた風が梢を揺らすと同時、ぽつりと雪慈が口を開いた。
「不思議な男だ」
 雪慈はユリウスから視線を外し、
「桃耶程飄々としてもいなければ宗一程生真面目でもない。闘いを避けようとする臆病者かと思えば、他人が傷付く時は誰よりも心配する。この大会での勝ち星も宗一の力があってこそだったろう。はっきりと言ってしまえば、とても役に立つとは言い難いだろうな」
 いつになく雪慈は饒舌だった。
 ユリウスの目は、僅かに雪慈の口許が緩んでいるのを捉えていた。
 雪慈が夜空を見上げる。二つの月が、漆黒の空を切り取っていた。それはマイ ティらこの世界の住人にとっては見慣れた風景だが、空に一つの月が浮かんでい る光景しかしらない雪慈にとって、それは不思議な――神秘的な光景だった。 「――だが、嫌いではない」  そう言って、雪慈は視線をユリウスに向けた。その口許は確かに笑みの形を作っている。それが、ユリウスにはひどく意外だった。
 付き合いは浅いが、ユリウスとて雪慈の人となりは理解しているつもりだ。人間全てを憎んでいるとは言わないまでも、疎ましく思っているのは事実のはずだ。
 そんな彼が無表情を崩している。その理由を探そうとして、思い当たったのは宗一だった。
 初めて彼らと言葉を交わした時、宗一と雪慈は衝突していた。だが、宗一は相手を傷付けずに勝負を決するという方法で自分の言葉の正しさを証明して見せた。それ以降、だろうか。最初に雪慈を見た時に感じた刺々しさ――氷で出来た刃じみた雰囲気――が和らいだのは。 雪慈は気付いていないかもしれない。けれど、雪慈の中で確実に何かが変わっているのだろう、とユリウスは感じていた。そして、それを羨ましいとも思った。
 変わるということはそう簡単に出来ることではない。それまでの自分を否定する何かを受け入れることは、決して簡単なことではないのだ。
「あの男がいなければ、私達は相容れなかっただろう。言うなれば、俊駕は我々の潤滑剤のような存在なのだろう」
「潤滑剤――」
 知らず、ユリウスは雪慈の言葉を反芻していた。
 だから、だろうか。殆ど言葉を交わした事のない相手を“イイ奴”と評したり、雪慈に表情を与える事が出来たのは。
 雪慈の話を聞いて、俊駕に対する興味がさらに湧いてくるのをユリウスは感じていた。雪慈や桃耶とはまた違った意味で面白い人間だ。今まで彼の周囲にはいなかったタイプ。
 ――まだ、彼は起きているのだろうか。
 ユリウスの視線は、自然と俊駕の消えていった方向へと向けられていた。
「もうじき夜半か」
 夜空に浮かぶ二つの月を見上げ、雪慈は言った。その声で、ユリウスは視線を雪慈に戻した。
「手を抜くつもりはない」
「当然だ。明日の試合を、楽しみにしている」
 二人は無表情のまま頷き合う。
 雪慈は踵を返し、ユリウスに背を向けた。と、雪慈は霞のように掻き消える。俊駕がその様子にぽかんとしていると直ぐにユリウスの視線に気付いた。
 ユリウスは暫く雪慈の消えた方向を見詰めると、自然と俊駕の消えた方向へと足を向けた。
 俊駕の歩幅が小さいのか、ユリウスの歩幅が大きいのか直ぐにユリウスは俊駕に追い付いた。俊駕は何かを抱えるようにして小走りしている。